3.船出
翌朝早く、金がホテルに迎えに来た。車の中で朝食のおにぎりを食べ、1時間くらいで仁川の街に入った。しばらくして、薄明かりの中に仁川港が見えて来た。金が、月尾島にある船員学校の前に車を停めると、建物の中から立派な髭をたくわえた老人が出てきた。
「こちらは朴さんです。ここの・・・」
金が紹介しようとするのを、朴が止めた。
「わしは日本人が大嫌いでのう。今回は金先生や彼の友人の日向先生に頼まれて、仕方なく引き受けたんじゃ。あんただけ特別扱いはせんから、そのつもりでいてくれ」
きれいな日本語だった。
「出航は6時じゃ」
朴はそれだけ言うと、さっさと船着き場の方へ行ってしまった。ポカンと口を開けている大和に、金が説明を始めた。
「まずはじめに、注意しておかなければいけないことがあります。朴さんは、韓国の老人を代表しているといってもいい人です。つまり朝鮮人でありながら、日本に占領されていた当時、日本の名前を付けられ、日本の教育を受けた人です。ですから、日本人を毛嫌いしていますし、日本人の言うことは信用しません。特に嫌うのは、自分の名前をパクではなく、ボクと言われることです。それから、これはパクさんだけではありませんが、目上の人を敬うこと。儒教の盛んな韓国では当たり前のことですが。まあとにかく、船の上では、と言うよりも、船を下りても、パクさんの言うとうりに行動して下さい。郷に入っては、郷ひろみです」
大和は笑うどころではなかった。黙ってうなづくと、金の後について船着き場まで歩いた。そして、大和はそこで異様なものを見た。
「あれは何ですか」
「あれがあなたの乗る船です」
古代にタイムスリップしたかのような、木でできた大きな船だった。船体からは何本もの櫂が出ていて、太くて高い帆柱も3本あった。そしてよく見ると、何人もの若い男たちが荷物を運び込んでおり、それを指揮しているのは朴だった。
「おーい、何をしているんだ!早くこっちへ来て手伝え!」
「じゃあ私はこれで。日向先生たちを迎えに行かなければいけませんので。また、釜山で会いましょう」
金は大和に言うと、朴の方を向いておじぎをし、車のところへ戻ってしまった。金と一緒に船に乗るものと思っていた大和は、あっけにとられて金を見送った。
「早く来いと言っているのが聞こえんのか!置いていくぞ!」
背中で朴が怒鳴った。
船は中学の歴史の教科書に載っていた、埴輪の船のようでもあった。出航準備が終わると、朴がみんなを集めて大きな声でしゃべり始めた。
「今回の航海実験は、必ず成功させなければならない。ソウル文化大学のキム先生や、ケイメイ大学のヒュウガ先生のためにも、予定どうり7日間でプサンまで行かなければならない。幸い、天気は最後まで持ちそうだが、君たちも知っているように、潮の干満も激しく、風もあまり期待はできない。そこで今回は、船の大きさ、性能、乗組員の人数も倍以上とした。航行時間も、1日15時間とする。みんな静かに聞いてくれ!働きのいい班には特別ボーナスも出るそうだ。それから、今回、特別に、ヒュウガ先生の弟子のテワも乗り込むことになった。みんなで力を合わせてがんばるように!それと、班長はちょっと残ってくれ。以上!」
大和には、キムとヒュウガ、ソウルにプサン、ケイメイという言葉しか分からなかった。
班長は5人いた。朴は彼らを前にして小声でしゃべり始めた。
「みんなには、7日間で釜山まで行くと言ったがとても無理だ。前回は一ヶ月もかかったし、それも動力船に曳航された区間があっての話だから、いくら性能を上げても半月はかかる。そこでだ、夜中に数時間、動力船に引っ張ってもらうことにした。もちろんそんなことをしたら、成功報酬も特別ボーナスも貰えないことはわかっている。それで君たちだけに話すんだ。どうだ、金が欲しいだろう。他の乗組員には言わないでいて欲しいのだ。だが気付かれたときは、君たちからうまく説得して欲しいのだ。テワには、わしの方から言っておく。それから、彼には一班に入ってもらう。いいな。不服のあるものは手を挙げろ」
ここでは朴が絶対なのだろう。だれも反対するものはいなかった。
大和が呼ばれ、一班の班長、趙に引き合わされた。
「イッパン、パンチョのチョでおます」
趙は変な日本語で挨拶した。
「チョは乗組員のなかでも一番優秀です。船にいる間は、彼の下で働くように。それから・・・・」
朴は続けて、一週間で釜山まで行くこと、乗組員は5班編成で、3班づつローテーションで櫂を漕ぐことなどを説明した。大和という名前が、ここでは、テワであることも知らされた。
「何か質問はあるかね」
「夜はどうなるんですか」
「適当な寄港地があれば上陸して休むが、錨をおろして船の中で寝る方が多い。いずれにしても、船の進み具合によるな」
「分かりました」
大和は、この船では客ではなく、漕ぎ手として働かなければならないことを理解した。
「出航!」
朴船長の大きな声で、船は岸壁を離れた。
朝鮮半島の西海岸、つまり黄海沿岸は潮の満ち干が激しく、手漕ぎの船はなかなか進まなかった。潮の流れに乗ってうまく進むには、時刻が限られており、北風も期待できないので、どうしてもスローペースになってしまうのである。
「やっぱり、思うようにはいかんな」
出航して1時間も経たないうちに、朴はつぶやいた。彼の足下では、大和が、パンチョのチョに怒鳴られながら、櫂と悪戦苦闘していた。
4.陸行
弥生と日向は、ホテルで朝食を済ませ、ロビーで金が迎えに来るのを待っていた。
「先生。私、先生にお伝えしなければいけないことがあります。韓国に来てから私たちある男につけられていたんです。その男誰だと思います」
「いや、まったくわからないな」
「それが、先生の教授室にアルバイトの申し込みに行ったとき、部屋から出てきた男だったんです。大和がドア男ってあだ名を付けたんですけど」
「そうですか・・・」
日向はため息混じりに言うと、記憶をたどるように視線を上に向けた。
「何か心当たりでもあるんですか」
「ええ。そのドア男は熊野と言うんですが、あなたたちの前に私のところに来ました。しかし彼は一人だったし、経済をやっているわりに、古代史の細かいところまでよく知っているんですよ。男女ペアで、古代史に関してあまり先入観の無いというのが条件でしたので断ったんです。でも、帰り際に気になることを言ってましたね」
「何て言ったんですか」
「あの男は、自分を雇わないと私の研究が続けられなくなるだろうというような意味のことを言ってました。そのときはあまり気にしませんでしたが、念のため、大学には行き先も告げずに、弥生さんたちより先に一人でこっちへ来たんです」
「そうだったんですか」
弥生は、何日も日向と連絡がつかなかった理由を理解した。
「私の居場所を探すために、あなたたちをつけていたのかも知れませんね」
「でも大丈夫ですよ。わたしたち彼をうまく捲きましたから」
弥生はほほえみながら、自信ありげに言った。
「そうだといいんですが」
日向が心配そうに言うと、弥生は話題を変えた。
「私たちの名前のことですけど・・・」
弥生は、自分たちの名前が今回の調査にふさわしいと言った日向の言葉の意味を聞いた。
「弥生さんの言うように、弥生時代の大和、まあ、当時はまだ倭であったわけだけど。それに私の幸彦という名前にもよく気がつきましたね」
「それから、これは大和が言っていたんですが、日向というのは天孫降臨の地、高千穂のある、今の宮崎県あたりの古い地名で、私の大神という名字は、天照大神にも通じるって」
「よくわかりましたね。でもまだありますよ。弥生さんの大神は、天照大神の他にも多くの神様の名前に付けられていて、宇佐神宮に祀られている比売大神もそうですが、どちらも卑弥呼に擬せられています。そして私の日向ですが、その昔はヒムカと言われ、ヒミコに通じるのです。卑弥呼をヒメコ、ヒムカと読む人もいます。それからもう一つ、菊池君のことですが」
そこまで言ったとき、金がホテルに入ってきた。
「菊池の秘密は宿題にしましょう」
三人は金の車でロッテワールドに向かった。弥生は、遺跡にでも行くものと思っていたので少々拍子抜けした。
「何だか大和に悪いわ」
「彼は彼で、優雅に船旅を楽しんでいるんです。こっちも少しは羽目を外しましょう」
「そうですね」
弥生は大和がどんな目にあっているかも知らずに言った。
乗り物やアトラクションを楽しんでから、三人はロッテ百貨店で昼食を済ませ、午後には高速道路に乗って2時間ほどで大田に入った。
「ここが、韓国第二の首都と言われる大田です」
金が誇らしげに言った。
「昔は静かな農村だったんですが、今では忠清南道の道庁所在地です。エキスポの跡が科学公園になっていて、新しい観光スポットとして人気があるんですよ」
車は大田には停まらず、西に向かい、扶余に到着した。
扶余は、日本の飛鳥文化にも大きな影響を与えた百済王朝最後の都で、街並みもどことなく奈良に似ていて親しみを感じる。白馬江を見下ろす丘の上に車を停め、三人は夕日を映す川面が徐々に色を変えていくのをしばらく見ていた。最初に口を開いたのは日向だった。
「明日は、博物館や遺跡を見て回りましょう」
三人は、白馬江近くのユースホステルに入った。
「今日はここに泊まるんですか」
弥生は、少し期待を裏切られたように感じて言ったが、中に入ってそれが間違いであったことがわかった。
「ここはホテル並みの施設が整っているんですよ。まあ、昨日のホテルとまではいきませんがね」
実際、普通のホテル以上の施設であったが、夜になって、少し騒がしくなった。ユースホステルだけあって学生が多いのと、釜山からの団体客が泊まっているということだった。
「私、ちょっと散歩してきます」
「気を付けて下さいね。外は暗いですから」
弥生は日向の注意を聞いてから、白馬江の川岸まで暗い道を下って行った。小さな舟が、黒い水面を流れていくのが見えた。
「ここからは黄海も近いはずだわ。大和は今頃どのあたりにいるんだろう」
弥生は一人でつぶやきながら、目の前の大きな流れに見とれていた。が、そのとき、突然後ろから強い力に襲われた。細くて長い指に首を絞められながらも、弥生はありったけの力で抵抗し、大きな声を上げた。いや、大きな声のつもりだったが、のどを絞められてかすかな声にしかならなかった。
「静かにしろ!」
男が低い声で怒鳴った。弥生が暴れれば暴れるほど、首への圧力はますます強まり、ついに意識がもうろうとしたとき、別の男の声が聞こえてきた。
「やめろ!何をするんだ!」
その声で弥生は意識を取り戻し、思いっきり肘で後ろを突いた。小さなうめき声が聞こえて首が解放されると、暗闇の中を暴漢がよろけながら川岸を上流の方へ逃げていくのが見えた。
「大丈夫ですか」
助けてくれたのは金だった。
「あの男です・・・あのドア男・・私見たんです」
しばらくその場に座って休んでから、金が弥生を抱えるようにしてユースホステルまで戻ると、日向の部屋で弥生は興奮してしゃべった。
「絶対あの男です。ドア男。顔は見えなかったけど長い髪で。それに日本語で言ったんですよ。静かにしろって」
「そうですか。あの熊野君が」
日向が落ち着き払って、暴漢に君付けするのを弥生は不満に思った。
「しかし、なぜこんなにしつこく付きまとうんだろう。訳がわからんな」
「先生何言ってるんですか。付きまとうどころじゃなくて、私を殺そうとしたんですよ」
「とにかく一人では行動しないで下さい。特に夜は」
「ええ。あ、それから、金さんはなぜあそこに来たんですか。偶然とは思えませんけど」
「まあ、虫の知らせとでも言うんでしょうか」
「それに、あの時、ドア男に向かって日本語で怒鳴ったわ。確か。なぜ韓国語じゃなかったのかしら」
「そうだったですかね。まあここ何年か日本に居ましたから、とっさのときにも日本語が出たんでしょう」
「そうなんですか」
弥生は納得しなかったが、命の恩人にしつこく聞くこともできなかった。
「それより、ドア男って一体誰なんですか」
こう聞かれて初めて、弥生も日向も、まだ金が熊野のことを何も聞かされていなかったことに気が付いた。
廊下ではまだ学生たちが騒いでいた。