古代史新聞 5月号


5/24
日本経済新聞より
弥生時代の始まり
紀元前10世紀後半

歴史民俗博物館が推定

 国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授らは23日、千葉大で開かれた日本考古学協会の研究発表会で、北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)は紀元前十世紀後半」と発表した。
 同教授らは昨年、弥生早期の始まりを前十世紀とする説を出したが、早期初めのデータを得られないまま早期後半の測定値などから推定していた。
 今回の発表によると、佐賀県の菜畑遺跡から出土した「山の寺式」土器(早期初め)の炭化物は、前930―前800年。福岡市の板付遺跡の「夜臼1式」(早期前半)は前900―前790年だった。その結果、早期初めは前945―前915年と推定されるという。
 また水田稲作が各地に広がった弥生前期の始まりは、北部九州が前九世紀末だが、高知県の居徳遺跡や高松市の東中筋遺跡などの土器の測定から、四国や近畿は前8―7世紀ごろとみられるという。



5/12
毎日新聞より
飾り金具の細工に糸
心棒の結束や固定に

奈良橿原・植山古墳

 推古天皇と息子・竹田皇子の合葬墓説がある、橿原市五条野町の史跡・植山古墳(6世紀末〜7世紀前半)から出土した馬具の飾り金具の内部に、麻の一種「苧麻(ちょま)」製の糸が使われていたことが分かった。11日発表した市教委によると、藤ノ木古墳(斑鳩町)など過去に出土した同様の飾り金具で糸を使った例は確認されていない。当時の技術を考えるうえで貴重な資料。
 調査したのは、馬の尻を飾る「歩揺(ほよう)付き飾り金具」(長さ約4センチ)。植山古墳出土の金属製遺物を保存処理する過程で、構造や材質を分析した。糸は3、4本の心棒を束ねるために使われていた。また、心棒にかぶせる筒金とのすき間を埋め、安定させる役割もあったとみられる。
 調査に協力した奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部の村上隆・主任研究官は「金属製でありながら糸を使っている。当時手に入ったいろんな材料をうまく用いたようだ」と話した。
 また、鞍の背もたれ部分「後輪(しずわ)」を飾ったと考えられる「鋲(びょう)付き金具」も調査。帯状になった金銅装の鉄製金具(幅7ミリ)に、銀の薄い板で頭を巻いた鋲(直径2ミリ)を1ミリ間隔で2列に打ち込むという細かな作業が施されていたことが分かった。鋲は500個近くにのぼったと考えられ、村上主任研究官は「製作は分業化していたのではないか。非常に高度な技術」と評価した。




古代史新聞 4月号


4/2
毎日新聞より
中九州に早期弥生文化?
稲穂摘む石包丁出土

熊本・江津湖遺跡群

 熊本市教委は、同市の江津湖遺跡群で弥生時代早期の土壙(どこう)墓約100基が出土したと発表した。稲の穂を摘む石器の石包丁や稲もみ跡のある土器も出土しており、日本列島で最も早く稲作が始まったとされる菜畑遺跡(佐賀県唐津市)や板付遺跡(福岡市)と同時代に中九州にも弥生文化があった可能性を示す。市教委は「北部九州から東へ広がったとみられていた弥生文化が、早い時期に九州全域へ伝わったか、中九州へ直接、有明海を通じて大陸から伝わったという見方もできる」と話し、弥生の始まりを北部九州主体に考えてきた通説に再検討を迫る重要な発見と評価している。
 市教委によると、土壙墓群は五つほどのグループに分かれ、グループごとに長さ150センチ前後の土壙の長軸はほぼ同じ方向を向いて整然と並ぶ。供物を入れたとみられる壷(つぼ)など夜臼(ゆうす)式土器が多数出土したことなどから、弥生早期と判断したという。同時期の墓地群では佐賀市の久保泉丸山遺跡に匹敵し、九州最大規模。
 一つの土壙墓からは刃先が折れた複数の石のやじりが出土。戦死した人の墓とみられる。木棺を納めた痕跡のあるものも20〜30基ある。壷棺5基と甕棺(かめかん)1基もあり、甕棺に稲もみ跡があった。石包丁は土壙墓から見つかった。
 墓地群は熊本市水源の泉ケ丘小学校プール建て替え工事に伴い、今年1月から約1000平方メートルを発掘調査してみつかった。

小田富士雄・福岡大教授(考古学)の話・・・・
 大陸から伝わった稲作文化が急速に九州全域に広がったことが証明される。これだけ大規模な遺構が出てきたことは、縄文から弥生への時代の転換期の研究のうえで貴重な資料だ。

夜臼式・・・・
 北部九州の弥生時代前期の遺跡で出土する縄文系土器の形式。福岡県新宮町の夜臼遺跡で弥生最古級の土器とともに出土した土器から名付けられた。縄文時代と弥生時代の接点にあたる重要な時期の標識となっており、近年、この土器形式の時代は弥生早期と呼ばれている。





古代史新聞 3月号

今月は縄文時代から古墳時代にかけての
目新しいニュースはありませんでした。



古代史新聞 2月号


2/29
日本経済新聞より
最古のほうき出土

奈良・橿原 西新堂遺跡

 奈良県橿原市の西新堂遺跡で、五世紀後半(古墳時代)とみられるほうきが出土したと28日、同市教育委員会が発表した。現存するほうきでは正倉院に伝わったものや、平城京跡から出土した八世紀中ごろ(奈良時代)のものが最古とされているが、今回はそれを300年前後さかのぼる。
 ほうきは広葉樹の小枝を束ね、ワラのようなひもで2カ所を縛ってあった。長さ45センチ、直径3センチ。柄が付いていた痕跡はなく、「手ぼうき」とみられる。 出土したのは古墳時代に河岸だった土の中。適度な水分に守られていたため、腐食せずに残ったとみられる。 周辺からは祭祀(さいし)用とみられる土器や鳥形、刀形の木製品も見つかった。同市教委は「おはらいなど、まじないにほうきを使った記録がある。今回見つかったものも祭祀に関連するのでは」と話している。



2/11
日本経済新聞より
石室に排水溝
「横穴式」と判明

大阪・今城塚古墳

 真の継体天皇陵とする説が有力な大阪府高槻市の国史跡、今城塚古墳(前方後円墳、六世紀前半)を調査中の同市教育委員会は10日、後円部の墳丘中腹で石室から延びる排水溝や石室の入り口とみられる遺構が見つかり、石室が横穴式だと分かったと発表した。
 市教委によると、大王(天皇)陵で横穴式石室が確認された最古の例といい、「石室は全長が20数メートルとみられ、欽明天皇陵との見方がある見瀬丸山古墳(奈良県橿原市、六世紀後半)の全国最大の石室(28メートル前後)に近い規模では」としている。 排水溝は後円部(直径約100メートル)の南東にあり、平らな石を組んだトンネル状で、断面は縦横約30センチの正方形。排水溝先端の上方に約3.5メートル四方の平たん地があった。さらに奥の墳丘斜面に人頭大の石積みがあり、この地点を市教委は「石室の入り口で、排水溝は内部の水抜き用」とみている。
 同古墳は全長約190メートル。国内最大の家形埴輪など大量の埴輪を用いた祭祀遺構が見つかった。
 宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体天皇陵としているが、研究者の多くは年代が合わないとして、今城塚古墳が継体天皇陵だとみている。石を組んだトンネル状の排水溝

石野博信・徳島文理大教授の話
 当時、近畿では先進的だった横穴式石室を、いち早く大王陵が取り入れたことが分かり興味深い。一方、墳形は畿内の伝統を引き継ぎ、新旧の要素が混在している。越前から招かれたとされる継体天皇の政治的立場を象徴しているようだ。



古代史新聞 1月号


1/25
日本経済新聞より
豪族の遺体を仮安置
殯屋?建築材発見

4世紀中ごろ
大阪・府中遺跡

 大阪府和泉市教育委員会が発掘調査していた府中遺跡で24日までに、殯屋(もがりや)とみられる4世紀中ごろ(古墳時代前期)の建築部材がまとまって見つかった。殯屋は豪族の死後、遺体をしばらく、通夜のため仮安置した施設。これまで柱穴など建物の痕跡が見つかった例はあるが、具体的な構造物は分かっておらず、注目を集めそうだ。
 部材は1.5メートル四方のパネル状になった草壁や屋根、直径10センチほどで表皮が付いた「黒木」の柱数本など。集落の外れの斜面を整地し、お供え用の高坏などとともに、きちんと積み重ねて置かれていた。
 草壁は紙の代わりにアシを張った障子のような造りだった。

 工楽善通・大阪府立狭山池博物館長(考古学)の話
 出土状況から、殯屋の可能性も十分考えられる。6、7世紀の殯の様子は日本書紀などで研究されているが、この時期については全く分かっていないだけに、大変興味深い発見だ。


1/24
毎日新聞より
大型掘っ立柱建物跡
弥生期で東日本最大

愛知県・一色青海遺跡

 愛知県埋蔵文化財センターは23日、同県平和町の「一色(いっしき)青海(あおかい)遺跡」で、弥生時代では東日本最大の大型掘っ立て柱建物跡が発見されたと発表した。広さ約80平方メートルで地方の首長の住居や倉庫に使用したとみられる。周辺から約200棟の竪穴式住居跡も見つかっており、同センターは「尾張南西部を率いた首長の大集落のシンボルだったのではないか」と話している。
 掘っ立て柱建物跡は短辺(梁間(はりま))5メートルに柱穴2個、長辺(桁行(けたゆき))16.25メートルに柱穴が7個並ぶ。柱穴跡の断面平均は2×1メートル、深さは1メートル以上。紀元前1世紀ごろの弥生時代中期の建物で畳約50畳分に相当する。弥生時代では、池上曽根遺跡(大阪府和泉市)、武庫(むこ)庄(のしょう)遺跡(兵庫県尼崎市)に次ぐ国内3番目の規模。
 また、屋根の棟木を外側で支える「独立棟持ち柱」がないのが特徴。独立棟持ち柱跡の見つかった池上曽根、武庫庄の両遺跡とは異なり、同センターは「神殿でなく、集会場や倉庫だった可能性が高い」としている。
 弥生時代の遺跡に詳しい石野博信・徳島文理大教授の話
 一色青海遺跡では掘っ立て柱建物を含めて建物群が整然と並んでおり全国的に珍しい。農村や漁村というより特別な目的で人工的につくられた町ではないか。



1/22
毎日新聞より
弥生時代後期の集落跡
竜描いた土器出土

大阪・八尾南遺跡

 財団法人・府文化財センターは21日、八尾市若林地区の八尾南遺跡の発掘調査現場で、竪穴住居7棟や井戸、水田などで構成される弥生時代後期(1世紀末)の集落跡を確認したと発表した。住居の周囲に巡らされた盛土(周堤)から床面までの高さは0・7〜1メートルあり、できた当時の深さをほぼ残していた。竪穴住居の集落跡としては保存状態が良好で、センターは「住居の構造研究に役立つ重要な資料」と話している。竜を描いた土器
 大和川の改修事業に伴う発掘で、02年度から約8000平方メートルを調査した。集落跡は、洪水で積もった0・4〜0・7メートルの土砂に埋まっていた。住居の規模は最大で直径8メートル、その他は3〜4メートル台。周堤は、すその幅が2〜3メートルあった。周堤は後世の掘削や風化で失われるケースが多いが、土砂に覆われたため、破損がほとんどなかった。
 住居の一つの排水溝からは、竜を描いた土器(幅約15センチ)の一部が見つかった。雨ごいなど水に関する祭礼に用いられたとみられる。竜の絵画土器は全国で約20例あるが、最もはっきり模様が残る例という。



1/15
山陰中央新報より
最古型式の四隅突出型墳丘墓
山陰地方で初めて発見

出雲市・青木遺跡

 島根県埋蔵文化財調査センターは十四日、出雲市東林木町の青木遺跡から、弥生時代中期後葉(紀元前一世紀)ごろの最古型式の四隅突出型墳丘墓が発見されたと発表した。最古の同墓が山陰地方で確認されたのは初めて。四隅突出型墳丘墓の起源が三次盆地とする学説の見直しを迫り、出雲も含め多源的に発生したことが明らかになった。同墓は弥生後期、山陰地方独特の王墓に発展するため、起源論をめぐる貴重な新資料として学界で議論を呼びそうだ。
 見つかった墳丘墓は、調査一区の東端で四つの辺のうち一辺が出土。辺の規模は南北十七メートル、高さ一メートルで、墳丘斜面に貼石(はりいし)と呼ばれる石を配置。南西側の隅に長さ五十センチの突出部が設けられ、明らかにコーナーを意識した形で二十−四十センチのステッピングストーン(踏み石)と呼ばれる石がりょう線に沿い七個並べられていた。
 被葬者を埋葬した主体部は奈良時代か、平安時代に削り取られたとみられる。主体部の土器は検出されていないが、同センターは墳丘周辺の土器から同時代に築造されたと判断した。
 四隅突出型墳丘墓は、山陰地方を中心に見つかっているが、弥生時代中期後葉で最古の同墓は陣山墳丘墓や殿山墳丘墓などいずれも広島県の三次盆地で八基が出土。これまで三次盆地の中国山地山間部で発生した後、日本海沿岸部の出雲地方などに伝わり、出雲市の西谷墳墓群のように弥生時代後期には国内最大級の王墓に発展したと考えられてきた。青木遺跡で今回、日本海沿岸部で初めて最古の同墓が確認されたことで、出雲が起源となる可能性もあり、議論が活発になりそうだ。
 同センターは十八日午後一時半から現地説明会を開く。
 田中義昭元島根大教授(考古学)の話
 四隅突出型墳丘墓の起源をめぐり、従来の学説に再検討を求める画期的な発見だ。少なくとも三次盆地と出雲の二カ所で築かれていた。まだ一基だけだが、早い段階から出雲でも造られ、出雲独自の発展を遂げるコースが見えた。