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4/19 日本経済新聞より |
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松山市埋蔵文化財センターは18日、松山市朝日ヶ丘の前方後円墳「朝日谷2号墳」の副葬品として出土した鉄鏃(ぞく=やじり)に、円形の刻印のような線刻が見つかったと発表した。朝日谷2号墳は三世紀後半に造られたとみられることから、同センターは国内で確認されたものでは最古としている。 線刻は、朝日谷2号墳の棺内から1989年に出土し、さびを落とした11点のうち2点から見つかった。このうち1点には、直径6ミリ、深さ1ミリの円のほか、円の中心に直径2ミリ、深さ1ミリのくぼみが確認された。 | ||
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4/17 日本経済新聞より |
「処方」など示す木簡出土 |
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最古の本格的な宮殿付属庭園とされる飛鳥京跡苑池遺構(7世紀、奈良県明日香村)に薬草園や菜園があったことを示す木簡が見つかった、と奈良県立橿原考古学研究所が16日発表した。発見されたのは、薬の処方を書いたと思われる木簡や庭園管理の担当官庁らしい「嶋官(しまのつかさ)」と書かれた木簡で、古代宮都の構造を考える上で重要な手がかりとなりそうだ。 橿考研は苑池(池のある庭園)の通水部と見られる遺構から木簡45点を発見、うち7点を解読した。「嶋官」は後の律令(りつりょう)制における「園池司(えんちつかさ)」の前身で、苑池とその付属施設を管理していた官庁とみられる。木簡には「下腹が冷える。医師が薬酒を飲むように言った」と書かれたものがあった。さらに、「加ツ麻○」「波々支道草花」など薬草らしい植物名と配合量が書かれたものや「委佐俾(わさび)」と書かれたものが見つかった。 二年前に苑池の底の堆積土を分析した際、桃やカキ、ナシなど多彩な種子や花粉が検出されている。庭園には天皇に献上するための薬草園や菜園が併設されていたと見られる。 飛鳥京あと苑池遺構は飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)があったと伝えられる場所の北西にあり、1999年の第一次調査で池の中島や石造の噴水装置が出土。橿考研が今春までに行った第二次調査で南北200メートル以上、東西70メートル以上ある大規模庭園だったことが判明した。斉明朝(655〜661)に築造され、日本書紀に天武天皇が訪れたと記されている「白錦後苑」とする説が有力。 | ||
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総合庭園の可能性・・・調査に当たった和田萃・京都教育大教授の話 同時代の朝鮮半島・新羅の代表的な庭園である「雁鴨池(がんおうち)」は植物園や動物園を備えていた。飛鳥京苑池も同様にさまざまな施設が付属した総合庭園だった可能性が高い。日本書紀には7世紀後半に朝鮮半島からラクダやロバなど珍しい動植物が贈られたとの記録があるがこの苑池の一角で飼われたのではないか。 | ||
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4/16 asahi.comより |
日本人のルーツ探しの手がかり |
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鳥取県青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で、約2000年前の弥生時代の人の4分の1から5分の1の大きさの脳組織が出土したと16日、同県教育文化財団が発表した。鳥取大医学部が組織のDNA分析を進めており、日本人の起源の有力な手がかりになると期待される。同時代の脳組織が分析可能な状態で見つかったのは国内では初めてで、24日から鳥取市の県立博物館で一般公開される。 同財団によると、昨年5月から6月にかけて出土した、弥生時代後期と見られる頭骨や背骨など人骨少なくとも92体分を同学部の井上貴央教授(解剖学)が鑑定。3体分から脳が見つかり、うち2体は残存状態が良かった。1体は熟年の男性と推定され、重さ約230グラム。成人の脳の大きさの5分の1程度だった。もう1体は壮年の女性で約300グラム。大きさは4分の1程度だった。 遺跡は低湿地帯にあり、適度な水分と粘土層で外気を遮断したことなどから、保存状態が良かったらしい。 これまで古代人のDNA分析はほとんどが骨などから取り出したミトコンドリア(細胞内の小器官)のDNAに頼っていた。しかし、ミトコンドリアDNAは情報量が少ない上、母親から伝わった特性しか持っていないため、父親の系譜をたどるのが難しかったという。 井上教授は「今回見つかった脳には細胞もよく残っており、人の全遺伝子情報が詰まった核DNAが取り出せる可能性がある」といい、「中国大陸などでこれまで出土している人骨の核DNAと照合すれば、弥生時代の日本人のルーツを探る手がかりとなるかもしれない」と話す。 古代人の脳からの核DNA取り出しは、80年代初めに米国フロリダ州の泥炭地にあるウインドオーバー遺跡で見つかった約7500年前の脳で成功したのが世界で唯一の例とされる。 | ||
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4/5 日本経済新聞より |
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奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)で確認された四神の朱雀によく似た朱雀が、中国・東北地方の高句麗時代の壁画古墳、三室塚(5世紀後半)の石室内に描かれていることが4日までに分かった。戦前の「日満文化協会」の調査報告書に掲載されていた。 三室塚の朱雀はキトラ古墳の二百年以上前に描かれたもので、とさかがあったり、首が長いなどの違いはあるが、右向きで尾を長く後ろになびかせ、片脚で地面をけって飛び立とうとする姿がよく似ている。キトラの四神の原図は、唐から伝わったとする説が有力だが、7世紀に渡来した高句麗出身の画師(えし)が日本に持ち込み、代々伝えられたとの見方も出ている。 三室塚は、集安県にあり、コの字形に三つの石室と通路を配する特殊な形の古墳で、段状に挟まる天井の細長い四方の壁に四神や文様などが描かれている。 戦前の調査によると、三室塚の朱雀は黄褐色に変色していたが、もとは赤かったと推測される。 | ||
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4/4 毎日新聞より |
大陸と異なる大胆表現 |
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世界最古の星宿(星座)図が発見された奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初頭)の石室南壁に、中国古代の想像上の動物「四神」の一つ朱雀が中国、朝鮮の古墳壁画にみられない独特の躍動感をもって描かれていることが分かった。3日発表した「キトラ古墳学術調査・整備委員会」(委員長、関義清村長)によると、国内の古墳壁画で朱雀を確認したのは初めて。玄武、青竜、白虎と合わせた四神図が天文図とともに鮮明な写真でとらえられ、古代美術史上の貴重な資料となった。一方、壁面のしっくいのはく落なども明らかになり、早急な保存対策が求められる。 同古墳では1983年のファイバースコープ、98年の超小型カメラなどによる探査で、北・東・西の壁に、四神のうち三つが描かれているのを確認。天井には星宿図があったが、南壁は撮影できなかった。今回、同古墳の整備・保存に向けて改めて調査。墳丘外から、石室の盗掘穴(直径15センチ)にデジタルカメラを挿入し、撮影した。 朱雀は南壁の天井から高さ約4分の1の位置にあった。頭を西に向け、翼を広げていた。石室壁面の寸法から推定した大きさは高さ約20センチ、幅60センチ。頭、背、尾は鮮やかな赤色で、胸が白かった羽根も細部まで表現していた。また、北、東、西壁で床から高さ約30センチの位置にワラビ手状の縦の赤い線を確認。人物群像の一部の可能性もあるという。 同古墳の約1キロ北の高松塚古墳では、極彩色の衣装を着た「飛鳥美人」図や、四神のうち三つが描かれていることが分かったが、南壁の表面は、はがれ落ちており、朱雀は確認されなかった。 同調査・整備委員の百橋明穂・神戸大教授(美術史)は「朱雀は、右足で地面をけり、飛び立とうとしている。自由かつ大胆な表現。正面を向き、動きのない大陸の朱雀とは異なる。日本流にアレンジした表現ではないか」と話している。 パネル展示は4〜8日(午前9時〜午後5時)、同村川原の中央公民館で。 |
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キトラ古墳・・・・・ 古墳終末期の円墳(直径14メートル、高さ3メートル)。被葬者は不明だが、天皇の皇子クラスの人物とみられる。高松塚古墳や天武・持統陵などとともに、藤原京の朱雀大路を南に延ばした「聖なるライン」上にあり、この地域を天武天皇一族の墓域とする学説もある。キトラの名称は、周辺の地名の「北浦(きたうら)」がなまったとの説や、盗掘に入った人間が玄武の亀(キ)と白虎(トラ)を見たとの伝承からきたとの説がある。 | ||
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四神・・・・・ 東西南北の方位を守る神獣で、順に青竜、白虎、朱雀、玄武。四神思想は中国の戦国時代(紀元前5世紀末〜同3世紀後半)に生まれ、朝鮮半島を経由して日本に伝わり、古代都市計画や建築に大きな影響を与えた。「続日本紀」によると、710年の平城京への遷都は、地形が「四禽(しきん=四神)図にかなう」ことが理由。朱雀門は宮殿の南玄関にあたる。相撲で土俵の周囲に下がる青、白、赤、黒の房もその名残。 | ||
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3/27 日本経済新聞より |
約200点、祭礼に使用か |
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奈良県桜井市の勝山古墳(三世紀後半ごろ)を調査している奈良県橿原考古学研究所は26日、古墳の堀から祭礼に関連するとみられる大量の木製品を発見したと発表した。魔よけの意味を持つとされるギザギザ模様「鋸歯紋(きょしもん)」が刻まれたU字形木製品も発見された。墳丘上に建築物を建てて埋葬の儀式などを行った後で、建物を道具ともども打ち壊して廃棄したらしい。古墳の性質やこの時代の祭礼を考える上で、重要な発見となりそうだ。 勝山古墳は直径65メートルの後円部を持つ、長さ110メートルを超す前方後円墳。前方部と後円部がつながるくびれ部の堀の埋土中から、約200点の木製品が見つかった。建築部材らしい柱や板材、ざるや鋤柄、樹皮を円柱状に巻いた円座らしい木製品などで、破砕された後に墳丘側からまとめて投げ捨てられたような状態で出土した。 U字形木製品は、長さ64センチ、幅58センチ、厚さ2.5センチで、朱が塗られた跡が刻線内に残っていた。このような木製品はこれまで発見例が無く、「玉座の背もたれ部の装飾品では」という見方が出ている。 勝山古墳は古墳時代前期の築造とされる纒向(まきむく)古墳群の一つ。隣接する纒向石塚古墳の堀からも、勝山古墳と類似した状態で大量の木製品が発見されている。出土した木製品は、四月二日から六日まで、同研究所(奈良県橿原市)一階で展示される。 | ||
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3/22 毎日新聞より |
「苑地」南北200メートル |
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7世紀半ば〜後半の王宮付属庭園とされる「飛鳥京後苑地遺構」(奈良県明日香村岡)の人工池は、南北200メートル、東西70メートル以上の可能性が高く、奈良時代より前では最大規模であることが分かった。21日、発表した奈良県橿原考古学研究所は、苑地は「外国使節の迎賓用だった」とみている。苑地は斉明朝(655〜661年)期には完成していたという説が有力で、律令国家体制が始まったとされる天武朝(673〜686年)期以前に、対外的威信をかけた施設を持つ”首都”が建設されていたことは、国家形成史を考える重要資料となりそうだ。 調査地は、斉明天皇の後飛鳥岡本宮の可能性が高い飛鳥京跡から北西100メートルの飛鳥川東岸。橿考研が1999年、池の南端を発見。石敷きの池底(南北35メートル、東西45メートル)や、内部に配された中島を確認したため、北側の9区画を発掘し、全体範囲を調べていた。その結果、南端の北約115メートルで池の一部を発見。池底は東西幅約6メートル、深さ1.25メートル以上で、両側に石積みの護岸(高さ0.9メートル)もあった。さらに地中レーダーによる探査と地形から、この地点から北約125メートルまで池跡を推定できた。 王宮付属の苑地としては、平城宮に「水上池」(約350メートル四方)を備えた「松林苑」があるが、それ以前としては飛鳥京跡苑地が最大となる。 | ||
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飛鳥京跡苑地・・・ 斉明、天武両天皇らが宮をおいたとされる飛鳥京に付属する苑地。1999年度調査で噴水施設の石造物なども見つかった。飛鳥京は史跡「伝飛鳥板蓋宮」を指し、時期の異なる宮殿の遺構が重なっている。皇極天皇(後の斉明天皇)の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮とみる説が有力。 | ||
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3/19 日本経済新聞より |
イカやシャコ |
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「縄文人は酒を飲み、そのつまみはイカやシャコ」。縄文時代最大級の集落跡で国の特別史跡の山内丸山遺跡(青森市)から出土したものが、イカやシャコだったことが分かり、青森県教育委員会が18日、青森市で開いた調査報告会で発表された。縄文遺跡からイカやシャコが見つかったのは初めて。 同遺跡からは、エゾニワトコやヤマブドウなどの種も見つかっており「酒を造っていたのはほぼ確実」との報告もあった。 | ||
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3/17 日本経済新聞より |
各地の土器出土 海路交易の拠点か |
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和歌山県文化財センターは16日、同県南部町の徳蔵地区遺跡から、竪穴住居十棟で構成される縄文時代中期(五千〜四千五百年前)の集落跡を発見したと発表した。同時期のまとまった集落跡は、西日本では初めて。 集落跡からは列島各地で出土しているのと同様の土器や石器用原料なども見つかっており、太平洋沿岸を海路で結んだ交易の拠点とみられる。縄文時代の交流を解き明かす上で、極めて重要な資料となりそうだ。 遺跡からは関東・周部地方に特有の勝坂式土器約30点が出土、香川県産の石器原料・サヌカイトが板状に加工された形で20枚出土した。奈良県産のサヌカイト原石、長野県産の黒曜石の剥片などが多数見つかった。西日本最古となる約四千五百年前の埋甕(うめがめ)の二つ出土。埋甕は埋葬や祭祀(さいし)に使ったと考えられており、当時は主に東日本の習慣だったという。 同センターは「より大規模な集落が形成されていた可能性がある」としている。現地説明会は24日午後1時半から。 | ||
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研究に衝撃的影響・・・泉択良・奈良大教授(縄文考古学)の話 この時期のまとまった集落は西日本で初の発見となるだけでなく、関東や中部、東海地方の土器、また四国や近畿産のサヌカイトの原石や石材が一つの集落で見つかったことが最大のポイントだ。全国の縄文時代研究に与える影響は衝撃的で、影響は限りなく大きい。 | ||
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3/15 日本経済新聞より |
布の文様見つかる |
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北海道恵庭市のカリンバ3遺跡で見つかった縄文時代末期(約三千年前)の二つの墓穴で、そこや壁面に布が押し付けられた文様があることが14日までに、分かった。遺体の着衣や埋葬に使われた覆い布の痕跡と見られ、縄文時代人の衣服の存在を具体的に示す初の例となる。 恵庭市教育委員会によると、二つの墓穴は直径1.6メートル程度のほぼ円形で、深さはそれぞれ0.7メートルと1メートル。底一面と壁に、幅1センチに8〜15本程度の細かな文様が数種類確認された。この時代の布の痕跡としては最大規模。尾関清子東海学園女子短大名誉教授(生活史)は、「縄文時代の布は非常に貴重。今回の痕跡は布が衣服に使われたことを示している」と話している。 | ||
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3/14 日本経済新聞より |
茅渟王近親の墓か? |
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古墳時代終末期(7世紀ごろ)の古墳とされる奈良県香芝市の平野2号墳を調査していた香芝市二上山博物館は13日、棺を納める玄室の床に切り石を敷き詰めた、特殊な構造の横穴式石室が見つかったと発表した。 同博物館は出土した土器から築造年代を7世紀半ばと推測。玄室について「7世紀後半から出現する横口式石槨(せっかく、小型の石室)への過渡的な要素が見られる」としている。 平野2号墳は、六つの古墳が集積していた平野古墳群の一つ。7世紀前後は孝徳、斉明両天皇の父、茅渟王(ちぬのおおきみ)の一族が周辺を支配しており、奈良県立橿原考古学研究所の泉森皎副所長は「隣接する平野1号墳(平野車塚古墳)は茅渟王の、2号墳は茅渟王の近い皇族の墓ではないか」と話している。 平野2号分は直径26メートル。玄室は約2メートルの巨石を垂直に立てて壁にしてあり長さ3.8メートル、幅2.5メートル。床の一部に長さ85センチ、幅46センチ、厚さ12センチの凝灰岩の切り石が残っていた。遺構の状況から、切り石を玄室の床に敷き詰め、中央に石やれんがを並べて木棺を設置したと見られる。 報告会は17日午前10時と正午の2回、同市ふたかみ文化センターで開かれる。 | ||
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3/1 毎日新聞より |
家と門柱かたどる |
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国内最大の船形埴輪が見つかった三重県松坂市の国史跡・宝塚1号墳を調査している同市教委は28日、これまでに確認されている導水路をかたどった囲形埴輪の近くで、王威を象徴するひれ飾りの付いた家形埴輪と、出入り口を表すとみられる門柱状埴輪が、新たに見つかったと発表した。古墳以外の場所で実際に行われていた「まつりの場」を埴輪で表現したとみられる。 埴輪が見つかったのは、同1号墳での祭祀の場である造出と呼ばれる台地の東側の地面。囲形埴輪から約1メートルの場所に家形埴輪があり、近くに門柱状埴輪2個が40センチ間隔であった。 家形埴輪は、格式の高い高床式の入母屋造りで、幅40センチ、奥行き38.5センチ、高さ75センチ。権威の象徴とされるひれ飾りと呼ばれる突起が、上屋根などに計17個付いていた。門柱状埴輪は、だ円筒形で、長径33センチ、短径17センチ、高さ27センチ(推定)。その周辺の一角を仕切るかのように、2個の門柱状埴輪からそれぞれ反対方向に二重口縁壷が並んでいた。 祭殿とみられる建物と水路、塀からなる古墳時代の王の祭祀場は、奈良県御所市の南郷大東遺跡などで確認されており、今回確認された埴輪の配置は、王の祭祀場を埴輪で表現したらしい。発掘調査を指導した八賀晋・三重大名誉教授は「門柱状埴輪は間隔も狭く、神の出入り口。当時の人々と神との関係がより鮮明になり、当時の精神世界を考える上で、非常に重要な発見」という。 |
![]() 宝塚1号墳から 出土した ひれ飾りの付いた 家形埴輪 | |
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3/1 毎日新聞より |
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弥生時代後期の遺跡「登呂遺跡」(静岡市)の発掘調査を進めている同市教委と登呂遺跡調査整備検討委員会(委員長・大塚初重明治大名誉教授)は28日、同遺跡から漆塗りとみられる琴が見つかったと発表した。古代琴は、全国の遺跡で約50例が報告されているが、漆塗りとみられる琴が見つかったのは全国でも初めてという。 発掘調査は同市教委が昨年7月から12月まで行った。見つかった琴は杉製で、残存部分の長さが87センチ。復元すれば、長さ約1メートル、幅10〜19センチ、高さ6〜9センチと推定される。共鳴箱を利用した「槽作り」と呼ばれるもので、下地に黒漆を塗り、その上から朱漆を重ねたとみられる精巧な作り。共鳴箱の側板には三角形の透かしがあった。 今回の発見について、同委員長の大塚名誉教授(考古学)は「漆塗りのものとすれば、祭りなどに使ったものではないか」と話している。 | ||
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3/1 日本経済新聞より |
3世紀前半に築造・「後円墳」と造り分け |
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滋賀県新旭町にある熊野本古墳群で、前方後方墳(全長約28メートル)が三世紀前半に、前方後円墳(同約30メートル)が三世紀半ばに相次いで築かれた可能性が高いことが分かり、同町教育委員会が28日発表した。 最古級の前方後方分と前方後円墳が同じ古墳群で造り分けられており、両墳形の出現時期や墳形の違いの意味など古墳研究の基礎となる重要な発見。 滋賀県では、神郷亀塚古墳をはじめ三世紀代の最古級の前方後方墳が確認され、近江が前方後方墳の発祥地とする見方を強めることにもなりそうだ。 同町教委によると、同古墳群では前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の38基の古墳が確認された。前方後方墳(6号墳)は前方部の墳頂で見つかった破砕された弥生後期の土器や墳形から、最も古い三世紀前半に造られたとみられる。また集落から見える南側の墳丘は大きく見えるように拡張していたことも分かった。近くの前方後円墳(12号墳)は、土器の特徴から6号墳より少し後の三世紀半ばに築造されたらしい。 同古墳群は、近くにある熊野本遺跡(弥生時代)の墳丘墓から継続的に首長の墓として営まれていたとみられる。 古墳は、卑弥呼の死(248年ごろ)の後から造られたという考え方が一般的だが、卑弥呼の時代にあった墳丘墓と明確な区別がつかない場合もある。 熊野本遺跡からは大陸との交易を思わせる大量の鉄器が出土していることもあり、同町教委は「同古墳群は卑弥呼が邪馬台国の女王として君臨していたころに、日本海ルートの交易を握った有力者一族が築造したのでは」と話している。 現地説明会は3月3日午後1時半から。 | ||
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近江独自の文化築く・・・赤塚次郎・愛知県埋蔵文化財センター主査の話 前方後方分が三世紀前半の造られた可能性は高いと思うが、前方後円墳とされる12号墳は、前方後円墳が定型化される以前のものと考えている。熊野本古墳群を造った勢力は畿内中枢とのかかわりというよりも、近江独自の文化を築いたのではないか。 航路握る位置に存在・・・石野博信・徳島文理大教授(考古学)の話 熊野本古墳群は滋賀県高月町の古保利(こぼり)古墳群とともに、太平洋側と日本海側の航路を握る位置にある。いずれも三世紀にとどまらず、四、五世紀にかけて古墳を継続して造り、勢力を維持し続けた。邪馬台国のクニのひとつとして重要なカギを握っている。 | ||
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2/28 日本経済新聞より |
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青森県鰺ヶ沢町の平野(2)遺跡で、縄文時代草創期初め(約1万3千年前)のものとみられる土器片約二百点が出土したことが、27日分かった。同時に出土した石器などから、日本最古級とされる大平山元(T)遺跡(青森県蟹田町)の土器片とほぼ同時期とみられ、縄文土器出現時の形状を探る貴重な資料になりそうだ。 鰺ヶ沢町教育委員会の委託で、土器片を分析した日本考古学協会員の北林八州晴さん(65)によると、土器片は昨年5〜9月の町教委の調査で出土した。縄文時代草創期に多い、表面に文様がない無文土器で、同時に出土した石鏃(せきぞく=石のやじり)や彫器などの石器や、地層から時代を特定したという。土器片は大きいもので約12センチ、厚さは4〜12ミリ。土器の口の部分の直径は15〜30センチ以上と推定される。20個以上の土器らしい。 | ||
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2/20 毎日新聞より |
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宮崎県都城市南横市町の坂元A遺跡で、縄文時代晩期後半(約2500年前)とみられる水田跡が出土した。国内最古とされる板付遺跡(福岡市)や菜畑遺跡(佐賀県唐津市)などの水田跡とほぼ同時期で国内最古級。水稲農耕は約2500年前に北部九州に渡来、その後各地に広がったとされるが、19日発表した市教委は「南九州でも北部九州とほぼ同時期に水稲農耕が始まった可能性を示す遺構」と評価している。市教委によると、昨年11月に出土した弥生時代前期後半(約2200年前)の水田跡の下層にあった計約400平方メートルの黒色粘質土層から、高さ3〜4センチ、幅15〜30センチのあぜで区切られ、耕された跡がある水田6区画以上(1区画約20平方メートル)を確認した。 | ||
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2/2 日本経済新聞より |
「弥生→古墳」の過渡期 |
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滋賀県能登川町神郷の神郷亀塚古墳が、三世紀前半の最古級の前方後方墳と分かり、同町教委が一日発表した。三世紀前半は弥生時代から古墳時代への移行期とされ、亀塚古墳も弥生の周溝墓と同様、平地に築かれているが、古墳のような高い墳丘を持つ過渡期的な形。前方後方墳の発生過程や、前方後方墳を造った大和の勢力に対抗した狗奴国(くなこく)との関係を考える上で貴重な資料という。 同町教委によると、埋葬部付近から弥生時代後期の土器が見つかり、三世紀前半と判断した。古墳の全長は約35.5メートル、周溝は最大幅が12メートル、深さ1.2メートル。後方部は奥がやや広がり、高さは約3.6メートルで、当時の墳丘の1.2メートルより高い。周辺にはいくつかの集落があり、地域の有力者の墓とみられる。 前方後方墳は東日本に多く、濃尾平野付近が発祥地とみられているが、亀塚古墳が過渡期的な性格を示しているほか、滋賀県内では高月町でも三世紀半ばの小松古墳が見つかるなど古い前方後方墳が多く、近江が発祥地の可能性も出てきた。 前方後方墳は、前方後円墳を象徴的な墳形とした大和の勢力と対立していた、東海地方の狗奴国の墳形とする見方もあり、同町教委は「近江が狗奴国連合の一つか、またはその有力地としての可能性が高まった」としている。 現地説明会は三日午後一時から能登川町中央公民館で。 |
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