『水行十日、陸行一月』について

1.水行について

魏志倭人伝では、帯方郡から邪馬壹国への所要日数を 『水行十日、陸行一月』 としている。
これを 『水行すれば十日、陸行すれば一月かかる』 と読む説もあるが、
私は、この起点を倭が始まる狗邪韓国からの所要日数と考えるので
『トータルで、水行で十日と陸行で一月を要する』と解釈し、以下にその詳細を述べる。

水行はどのくらいの速さなのか?

<表1> 一日の水行距離
研究者
水行一日
km換算(1里=約425m)
出典
山尾幸久氏
40里
 17km
新版・魏志倭人伝(講談社現代新書)
白崎昭一郎氏
90里
 38km
「邪馬台国」 12号
石井謙治氏

 46km・・・10時間
 84km・・・18時間
111km・・・24時間
歴史読本 S52年8月号
茂在寅男氏

 20km〜23km
歴史読本 S59年9月号




平均

33km(石井氏12時間換算)


山尾氏、白崎氏、茂在氏の一日の航行時間は不明
石井氏の航行時間を一日12時間として
一日平均水行距離 約33km=約367里(実測距離に基づく一里=約90mとして算出)

狗邪韓国〜末廬国=3000里(魏志倭人伝記述)
3000里/367里=8.2日
狗邪韓国〜末廬国=244km(実測距離)
244km/33km=7.4日

上記の計算をもとに実際の所要日数を算出したのが下表となる
各国寄港地の推定を考慮すると、狗邪韓国から末廬国まで9日を要する。

<表2> 各国間の距離と所要日数
出港国〜入港国
寄港地(推定)
距離
所要日数
狗邪韓国〜対海国
釜山付近〜上対馬町北部
上対馬町北部〜浅茅湾〜大船越
75km
50km
2日
2日
対海国〜一大国
大船越〜勝本町北部
勝本町北部〜石田町・郷ノ浦町南部
63km
14km
2日
1日
一大国〜末廬国
石田町・郷ノ浦町南部〜呼子
呼子〜唐津
26km
16km
1日
1日




狗邪韓国〜末廬国

244km
9日


水行十日のうち、9日は狗邪韓国から末廬国までの日数であるが、残りの一日はどこに要するのか?
私は邪馬壹国は八女地方付近にあったと考えるので、
筑後川を下る(北野町付近〜城島町付近・直線距離20km)のに一日要したとする。


2.陸行について

陸行についてもまず、一日にどのくらいの距離を移動したかが問題となるが、水行以上に諸説ある。
山尾幸久氏は、前出『新版・魏志倭人伝』の中で、後漢書などいくつかの史料を示し、
一日40里(約17km)前後としている。

また、東海大学の茂在寅男教授はリアス式海岸沿いに実地踏査をし、
一日の行程は7キロがやっとであるとしている。(1987年『東アジアの古代文化』53号 大和書房刊 ほか)

さらに台湾の海洋学院大学教授・謝銘仁博士は、水行十日陸行一月を
「休日・節日や、いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり、
鬼神への配慮などから道を急ぐのを控えた日々をひっくるめた総日数に、
修辞も加わって記されたものである。決して実際にかかった所要日数のことを意味しているのではない」とし、
さらに「天候や何かの事情により進めなかった日数や休息・祭日その他の日数も加算し、卜旬の風習も頭に入れて、・・・」
として、実際の所要日数以上にかなりの日数を含んだ表現だとしている。(『邪馬台国・中国人はこう読む』立風書房刊)

ここで倭人伝の記述に注目したい。
「郡から女王国まで1万2千余里」とあり、ほぼその場所が確定している伊都国までに1万500里を要していることから
伊都国から女王国までは1500里となる。(ここでは余里は無視)
私の考えでは女王国=邪馬壹国ではないので、女王国の北限である筑後川南岸までの距離とする。
つまり邪馬壹国へはさらに筑後川下りの水行一日と再上陸してからの陸行をプラスする必要がある。
伊都国のあったとされる平原・三雲付近から、博多・須玖を経由して筑後川まで約50km、
1里を90mとすると約555里の距離となり、1500里とは約2.7倍の誤差が生じる。
だが、郡の使者が伊都国にとどまり、そこから先の行程が倭人からの伝聞であった可能性は高く、
道なき道を進んだ結果、実測距離よりもかなり延長された記述になったこともあり得る。
また、これは一例だが、一大国の中央部から唐津までが約49km(表2参照)であり、
これが1000余里と記述されていることから末廬国のあったとされる唐津から
伊都国・奴国を経て筑後川に至る約80kmが1630里ほどになり、
累計で11630里プラス余里という計算も成り立つわけで、基準の取り方によってかなりの誤差が生じることが分かる。

邪馬壹国への陸行一月も上記のような条件のもとでは、かなりの日数を要したことが考えられ、
私の考える邪馬壹国=八女地方付近まで、末廬国から陸行一月(筑後川の水行を除く)かかったとする記述も
否定できないのではないだろうか。


3.まとめ

『水行十日、陸行一月』は倭の始まりである狗邪韓国から水行で末廬国まで9日、
陸行で伊都国・奴国を経て女王国の北限である筑後川に至り、川を一日下って再上陸し、
八女地方付近にあった邪馬壹国まで陸行トータルで一月ほどかかったと考える。

投馬国へは邪馬壹国と同じく狗邪韓国から水行で二十日と考える。
この場合、対馬から沖ノ島を経由して関門海峡まで約十日、
そこから九州東海岸を南下して約十日で宮崎県西都原付近にたどり着いたと思われる。

以上の私見を図にしたものが下になる。

水行陸行