戸数について
魏志倭人伝では、いくつかの国について戸数を記述している。
これまでは、遺跡分布や十世紀の『和名抄』の郷の分布などから
当時の人口を推測するといった研究がなされてきたが
(安本美典氏の著作などに詳しい)
ここでは面積からこの問題に迫ってみたいと思う。
まず基準とするのはその国の大きさがほぼ確定している一大国(壱岐)である。
倭人伝では方三百里、三千余戸があるとしている。
この一大国の面積、戸数を基準に不弥国までを比定したのが下表になる。
平野部や山間部の割合、人口の密集度合いなどを考慮しなければならないが、
二万戸を有する奴国は、通説で考えられているよりもかなり南に広がっていたのではないかと思われる。
邪馬壹国の七万戸については、
私は女王国全体(斯馬国以下重出の奴国を除く20ヶ国プラス邪馬壹国)の戸数だと考えている。
範囲は、筑後平野〜筑肥山地(熊本県境)〜阿蘇北麓〜大分県大野川沿い〜北九州までの内で
主に平野部を中心に国々があったと考える。
邪馬壹国自体は卑弥呼の宗教的な力によるところが大きく
国自体はそれほど大国ではなかったのではないか?
また、投馬国を宮崎県西都原付近(都萬神社中心)に比定したが
この五万余戸は女王国と同じく投馬国を中心とした周辺同盟国の総戸数であると考える。
<図1>は、その大きさを方形であらわしたもの
<図2>は、表の比定地を国別に色分けしたもの
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国名 |
対海国 |
一大国 |
末廬国 |
伊都国 |
奴国 |
不弥国 |
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戸数 (戸数係数) |
1000戸 (0.33A) |
3000戸(A) (1.00A) |
4000戸 (1.33A) |
1000戸 (0.33A) |
20000戸 (6.67A) |
1000戸 (0.33A) |
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比定地実面積 戸数比面積 |
709.93ku 46.02ku (0.33B) |
139.46ku(B) 139.46ku (1.00B) |
185.48ku 173.58ku (1.33B) |
104.30ku 46.02ku (0.33B) |
911.05ku 930.20ku (6.67B) |
114.14ku 46.02ku (0.33B) |
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比定範囲 現在の 市町村別面積 (単位 ku ) |
上県町 156.81 |
芦辺町 45.25 |
唐津市 127.02 |
前原市 104.30 |
福岡市 336.82 |
古賀町 42.23 |
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上対馬町 108.22 |
石田町 16.55 |
鎮西町 39.16 |
甘木市(0.5) 83.36 |
新宮町 19.07 | ||
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峰町 73.20 |
勝本町 30.47 |
呼子町 7.40 |
大野城市 26.94 |
津屋崎町 23.33 | ||
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厳原町 177.26 |
郷ノ浦町 47.19 |
小郡市 46.02 |
福間町 29.51 | |||
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豊玉町 74.61 |
春日市 14.26 |
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美津島町 119.83 |
太宰府市 26.94 |
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筑紫野市 87.50 |
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一大国を方三百里、対海国を方四百里としている記述に従うと面積比で対馬の方四百里は、247.93kuになる。 これは対馬全域面積の34.92%になる。 現在の人口比率に当てはめると、16711人となり、(対馬47856人、壱岐38953人)戸数係数0.33Aに対し0.43Aとなる。 どの地域を方四百里と比定したかは定かではないが、山間部の多い対馬においては数値以上に人口密度は低かったと考えられ、ある程度妥当な数値といえるのではないだろうか。 (古田武彦氏は方四百里を下県郡に比定) |
東松浦半島の東側地域に比定。 |
前原市全域を比定したが、平原・三雲地域を中心とした東半分と南、山間部を除いた地域とすれば、ほぼ戸数比面積に適合する。 (44%) |
朝倉町 34.66 |
沿岸部とすれば戸数比面積にほぼ適合する。 (40%) | ||
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三輪町 21.62 | ||||||
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夜須町 45.43 | ||||||
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宇美町 30.54 | ||||||
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粕屋町 13.91 | ||||||
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志免町 8.69 | ||||||
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須恵町 16.24 | ||||||
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那珂川町 74.17 | ||||||
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北野町 20.29 | ||||||
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大刀洗町 22.66 | ||||||
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西辺は前原市〜佐賀県境、東辺は香椎宮〜三郡山地〜甘木市西部、南辺は筑後川とした。 (甘木市は西50%を比定) | ||||||

