古墳の変遷


弥生時代、墳丘墓は地域によって下図のような変化があらわれる。
これらは大きく方丘墓円丘墓に分かれ、それぞれに張り出し部(祭壇の変化したものか)が付き、地域によって様々な展開を見せる。

古墳の変遷



弥生時代後期、銅鐸や銅矛による青銅器祭祀は徐々に墳墓による祭祀へと代わる。
特に出雲から北陸の日本海地域には、四隅が突出した独特の方丘墓があらわれる。
また、吉備地方には対称に二つの突起を持つ墳墓が造られ、それぞれ地域の独自性をあらわしている。
その後畿内では、前方後円墳の祖形といえる形のものが造られはじめ、瀬戸内海沿いに西へと普及し、邪馬台国の時代には、それまで甕棺墓や隅円長方形の墳丘墓などが多かった北九州に達する。
一方、畿内から東、東海から関東にかけては前方後方墳の祖形があらわれて、他とは違った展開を見せることになる。
この墓制は邪馬台国畿内説にとっては狗奴国のものと見ることができ、前述の畿内から北九州への墓制の広がりは、当時の中心地が畿内であったことを物語るものとすることができる。


    ↓ 邪馬台国の時代へ
墳丘墓の地域性

卑弥呼の墓については、魏志倭人伝の記述からは径百余歩(150b)円墳の可能性が高いが、大規模な前方後円墳の築造年代が徐々に遡ってきていることなどから、箸墓などが畿内説では卑弥呼の墓に比定されている。
ちなみに、箸墓の円墳部分の直径は約157bである。
九州にはこの時代の大規模な古墳は見つかっていないが、径百余歩が、里数と同じように実数との比較において数倍の表記であることが考えられ(里数の場合は実数の約5倍)、実際は数十bである可能性も否定できない。
卑弥呼の墓ではないが、私の『邪馬の壹の国』があったとする地域には、筑紫君磐井の墓とされる、石人・石馬で飾られた岩戸山古墳がある。
この大和朝廷に反乱を起こした磐井が、魏志倭人伝に出てくる「已百支国」に何らかの関連があるのではないかと勝手に想像する。
筑後から肥後北部、豊後の東部にかけての石人・石馬の広がりは、日本書紀に言う『火・豊の二国に掩拠(おそいよ)り』大和朝廷に反乱したという記述に符合する。
大和政権の西進で沿岸部などを失って勢力の衰えた旧邪馬壹国連合は、その後、已百支国王の末裔、磐井に引き継がれて、最後の抵抗を試みたのではないだろうか?
もしかしたら、卑弥呼の墓もこの付近にあるかも知れない・・・・



下図は南九州独特の墓制分布をあらわしたもので、畿内に発生した古墳文化は5世紀中頃には南九州に達した。
前方後円墳に代表される畿内型高塚古墳は主に志布志湾沿岸地域に集中しているが、いわゆる熊襲・隼人とよばれた人々は、それとは別の独自の古墳文化を形成していた。
すなわち、南九州の古墳時代は、地下式横穴と、地下式板石積石室立石土壙墓などの埋葬形態をもつ隼人の原始共同体社会畿内型高塚古墳を築いた権力社会が共存した二重構造の社会であったと推定される。

ここで注目したいのは、私がそれぞれ狗奴国・投馬国に比定した地域がこれらの墓制の分布と一致する点である。
すなわち、球磨地方を中心とした狗奴国が地下式板石積石室分布圏西都原を中心とした投馬国が地下式横穴分布圏にそれぞれ対応していることである。
狗奴国と投馬国の文化が、それぞれの墓制に残ったのではないか?

南九州の古墳文化