
第1章 はじめに
邪馬台国の名は、3世紀中国で編まれた歴史書
「三国志」に登場するのがはじめてである。その「三国志魏書東夷伝倭人の条」をふつう「魏志倭人伝」と呼ぶ。
日本では、邪馬台国をめぐって、江戸時代の新井白石や本居宣長らに始まり今日まで、歴史学者や考古学者は言うに及ばず、在野の自称研究家に至るまで、諸説入り乱れての論争が続いている。
近年、考古学上の重要な発掘が相次いでいるが、いまだ邪馬台国の女王卑弥呼の墓の比定や魏より贈られたとされる印綬の発見には至っておらず、邪馬台国がどこにあったのかはまだ確定していない。
邪馬台国の所在地については、魏志倭人伝の解釈によって大きく畿内説と九州説の二つに分かれているが、さらに沖縄や南方の島々、遙かエジプトにまでその場所を求めようとする説も存在する。また、「大和」に邪馬台国を比定しようとするものがほとんどの畿内説とは違い、九州説には「山門」という昔の地名に充てる説をはじめ、北から南までありとあらゆるところに邪馬台国の候補地が存在している。
私はこれから、魏志倭人伝の記述をたよりに、魏の使節がたどったであろう道に沿って歩を進め、卑弥呼の待つ邪馬台国にたどり着こうと思う。 なお、魏志倭人伝の記述には
誤記などはなかったことを前提とする。
また、このページを制作するにあたり、多くの方々の著書・論文を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
では次章をお楽しみに!
三国志・・・・・
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三世紀後半に陳寿によって編まれた歴史書。この中の魏書の巻30に東夷伝がある。他の辺境の記述よりも詳しい。原本は残っていないが、それを写したとされるものが年代により、紹興本、紹煕本などとして残っている。
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誤記・・・・・・
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代表的な例として挙げられるのが、邪馬壹国が邪馬臺国、南が東、陸行一月が一日など。
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第2章 帯方郡〜狗邪韓国 MAP1
魏志倭人伝によると、邪馬台国への旅は帯方郡というところから始まる。帯方郡は、古代に朝鮮半島におかれた中国の郡県で、後漢の末に今のソウル付近に分置されその後魏にひきつがれた。その帯方郡から「倭」すなわち古代の日本に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って
水行し、韓の国々を経て、南へあるいは東へと進み、倭の北岸にあたる「狗邪韓国」に到着する。この行程で、途中から陸路を行ったと考えることもできるが、陸行の記述がないことと、倭の北岸という表現から一行は船でここまで来たと思いたい。これまでが七千余里である、と書かれている。
ここでいう「倭」は、もとは百余国に分かれ、漢の時代から中国に朝貢しており、この時代に外交関係にあるのは三十国であるとしている。当時帯方郡より南は、馬韓・辰韓・弁韓のいわゆる三韓に分かれていたが、
「狗邪韓国」は弁韓十二国の一つで、今の金海付近にあったとされる。つまり、この当時から倭人は朝鮮半島に拠点を置いていたのであり、この国が倭の北岸にあたるのである。その役割の一つは、鉄の交易にあったことは言うまでもない。また、ここでいう七千余里は今の里数とはまったく違うが、この問題は次の章で述べることとする。
朝鮮半島の西海岸は干満の差が激しい難所であるが、天文学や航海技術によってそれを克服し、魏の使節団は「倭」の始まり「狗邪韓国」にやってきた。ここまで来るのに二十日以上を要していた。使節に混じって「一大国」へ帰る海女族の姿もあり、南の海を見つめている。
いよいよここから海を渡り、「対海国」に向かうことになる。
水行・・・・・・
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通説では海岸沿いや川を船で行く場合に、水行としている。海峡を渡るときは「渡海」、遙か大洋を航海する場合は「船行」と表現しており、邪馬台国への「水行10日陸行1月」は海峡を渡る行程を含まないことになるが、私は陸行との対比で、大きな意味での水行という使い方であるとしたい。
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狗邪韓国・・・・
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後の加羅・任那へと引き継がれる。
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第3章 狗邪韓国〜伊都国 MAP2
狗邪韓国を出航した魏の使節団は、倭の2番目の国「対海国」を目指した。潮の流れの速い朝鮮海峡を渡って、千余里で到着した。「対海国」は対馬である。そこは山や森がほとんどで、家は千余戸、主に海産物で生計を立てており、交易が盛んである。
大官の卑狗や次官の卑奴母離に丁重な歓待を受け2日ばかり滞在したのち、使節団は海岸沿いを南下し次の国
「一大国」を訪れるため、また海を渡った。
一大国は今の壱岐である。この国の大官・次官も名をそれぞれ卑狗・卑奴母離と言い、家は三千ばかり、田はあるがやはり交易に頼っている。ここでは嵐のために5日も足止めを食ってしまった。
一大国の港を出るときに、卑狗は使節団に小さな荷物を手渡した。これを伊都国にいる
一大率に届けてほしいと言うのである。聞けば一大率というのは、邪馬台国の女王卑弥呼の命により九州北岸諸国を統率するために置かれたもので、一大国の王族が務めているということであった。
さらに
千余里でいよいよ船は九州本土に上陸する。当時の魏の一里は、今と違い約434メートルだが、それで計算するととんでもない距離になってしまう。長里、短里という使い分けがあったという人もいるが、実際の各国間の距離からして一里は70〜90メートル程であろう。
上陸したここは
「末廬国」といい、今の佐賀県東松浦郡にあたる。海岸線に沿って家が点在し、一行はその中心、今の唐津付近にたどり着いた。この国には家が四千余戸あり、人々は海に潜って魚やアワビを捕っている。
2日の滞在ののち、末廬国の役人の案内で陸路「伊都国」を目指した。
伊都国の北の港まで船で行った方が近いのだが、九州北岸の盟主国「伊都国」へは、魏の権威を示すため御輿をあつらえて陸路入国することになり、重要でない荷物だけ船で先に運ばせることにした。
道々、村々の盛大な歓迎を受け、五百里先の伊都国に到着したのは上陸してから5日後のことであった。
伊都国は「奴国」と並んで九州北岸の盟主国で、邪馬台国によって一大率が置かれ、諸国を検察し、献上品や賜物、書簡などの点検を行っている。
魏の使節団は
伊都国に留まり、一大率や伊都国の長官らに加え、出迎えに来ていた邪馬台国の長官、伊支馬たちによって盛大な歓迎の宴が開かれた。通常、朝鮮や中国からの使者は伊都国に留まって、倭の各国の主立った役人たちと情報交換や交易の取り決めなどを行っていた。邪馬台国まで行った者はほとんどおらず、卑弥呼も人前には滅多に出ないということである。
倭人たちの話では、邪馬台国はここから陸路で20日くらいかかるらしい。結局、倭の始まり「狗邪韓国」から「邪馬台国」までは、途中の滞在などを含めると、船で10日くらい、さらに歩いて一月くらいかかることになる。
ここから先は、魏の使節団と別れ、邪馬台国の長官、伊支馬に案内してもらい旅を続けよう!
一大国・・・・・
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一支国(壱岐国)の誤りとされるが、原文を重視すると、次の一大率と何らかの関係があったことも考えられる。
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一大率・・・・・
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中国・魏が措いたとする説もある。(松本清張氏など)
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千余里・・・・・
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対馬から壱岐までが千余里で、壱岐から松浦までも同じ千余里としている。地図で見ると明らかに後者の方が距離が短いが、他の距離や戸数などの多くが切りの良い数字や五行思想に基づいた3・5・7という数字になっていることから、厳密に細かい数字は記載しなかったものと思われる。畿内説では、長里を用いて大和まで引っ張ろうとする意図が見られるが、私はほぼ確定している奴国までの各国間の距離から逆算して一里は70〜90メートルとしたい。
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末廬国・・・・・
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官の記載がないことや次の伊都国で荷物の検査をしていたことから、末廬国は経由・補給の役割が主だったと考える。
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伊都国の北の港・・・・・
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弥生時代には糸島半島は陸続きではなく、糸島水道という運河のようになっていた。伊都国の中心はそこから少し南に入った平原付近ではなかったか。
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伊都国に留まり・・・・・
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伊都国以降の道程表記がそれまでと変わることから、放射説の論拠となっている。ここでは、海岸沿いに不弥国までは魏の使節も直接知り得たとし、不弥国まで連続性を持たせたい。
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伊都国平原遺跡
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平原付近より雷山方面を望む
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第4章 伊都国〜邪馬台国 MAP3
伊都国に5日滞在した後、私だけ邪馬台国へ向かうことになった。案内役は邪馬台国の長官、伊支馬である。伊支馬の話では、魏志倭人伝に書いてあるように、ここから東南に百里で
「奴国」に着くと言う。かの
金印が見つかった志賀島のある国だが中心はもっと南らしい。家は二万余戸あり昔から有力な国であったそうだ。また、そこから東に百里で
「不弥国」に行くことができる。千余戸と小さな国だが、邪馬台国の外交上重要な国だそうで、詳しいことは教えてくれない。伊支馬は地図のようなもので説明してくれたのだが、私から見ればそれはかなり幼稚なもので、方角や距離もあてになりそうもない。
さらに伊支馬は、南の方へ船で10日ほど行くと
「投馬国」に着くと言う。伊都国から南といっても船で山を越えるわけではなく、いったん東に海岸沿いに進んで、海の門を通って南に向かうらしい。倭の始まり「狗邪韓国」からは船で南へ20日ほどである。その間にもいくつもの国があるようだが大きな国ではないという。海の門は今の関門海峡、投馬国は宮崎の西都原付近になる。投馬国も周辺国と連合国家を形成しており、邪馬台国と同盟関係にあって、邪馬台国の南にある
「狗奴国」とは西の国境で対峙しているということだ。
私たちは、草木の茂った、道と呼べるほどには整備されていないところを歩いた。奴国の南側を行ってから進路を真南に向けた。どうやら今の筑後川方面を目指しているようである。魏志倭人伝によると帯方郡から邪馬台国までが一万二千余里で、伊都国までの里数の合計が一万五百里プラス余里の合計であるから、差し引き千五百里ほどになる。余里をどう扱うかは見解の別れるところだが、七千や千といった大まかな数値表記であることや海や山道で正確な距離が測れたかは疑問であることを考え、また、対海国や一大国の寄港地から出港地の距離などを差し引いても、だいたい伊都国から千二百里から千三百里程度のところに邪馬台国があったと考えてよいであろう。今の距離にすれば80キロから120キロくらいであろうか。いずれにしても九州にあることは確かだ。
途中、小さな国や村で歓迎を受けながら、やっとのことで筑後川に到着した。ここから南一体は
「邪馬」と呼ばれているそうで、その中にいくつもの国があり、一番強大な国が
「邪馬の壹の国」、すなわち卑弥呼のいる、北部九州連合国の統治国であるということだ。
私はここで、伊支馬が「邪馬台国」ではなく「邪馬の壹の国」と自分の国を呼んでいることに気がついた。
卑弥呼の居所まではもうしばらくかかるらしい。ここからは筑後川を一日下って、南岸に上陸しさらに陸路を進む。今の八女地方あたりに着いたであろうか。狗邪韓国を出てから水行9日ほどで末廬国に着き、
陸行一月近く、途中筑後川の水行一日を費やしてやっとここまで来ることができた。卑弥呼はどんな女性であろうか?そして「邪馬の壹の国」とは?
奴国・・・・・・
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那の津、志賀島の金印、などから、博多湾沿岸から春日市辺りまでではないかとされるが、戸数の多さから、私は筑後川北岸近くまで広がっていた可能性を指摘したい。(参照「最近の研究」戸数について)
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金印・・・・・・
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漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読むのが通説だが、委奴をイトと読み、伊都であるとする説もある。
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不弥国・・・・・
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宇美に比定する説が有力。だが、一大率のいた伊都国を除いて、これまでの各国の官名に卑奴母離=夷守とあることから、海岸伝いに守備軍を率いる官の存在を考えて、現在の宗像・津屋崎辺りに比定したい。
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投馬国・・・・・
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不弥国までが連続した記述で、投馬国は狗邪韓国から水行20日と考える。九州説では日向の都万のほか薩摩に、畿内説では鞆、玉祖、出雲などに比定する説がある。
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狗奴国・・・・・
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球磨や熊襲から、南九州が有力。畿内説では熊野、毛野(北関東)とする説もある。
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邪馬・・・・・・
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北部九州でも海岸のある海地方の国とは違い、内陸の地方。旁国の中の邪馬国も含まれる。
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邪馬の壹の国・・・・・・
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「邪馬壹国」か「邪馬臺国」かで論争がある。ここでは「邪馬壹国」を採用するが、壹が一と書かれていないのは、一大国などと違って「邪馬壹」が固有名詞ではなく、「邪馬の壹の国」という表現の可能性を感じさせる。
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陸行一月近く・・・・・・
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7世紀はじめの隋書・東夷伝・倭国の条では、倭国の境は「東西5月行・南北3月行」で、北九州の竹斯国(筑紫国)から秦王国(秦氏の国=京都郡?)を通り、さらに十余国を経て倭王の遣い・小徳阿輩臺の待つ海岸(河内)に使者が着いたとしている。倭国の範囲が、直接支配力の及んだ九州から伊勢湾付近までとすれば、右図のように、南北3月行は九州の南北の距離と考えられ、末廬国から陸行一月で邪馬壹国に達したとする(私の考え)魏志倭人伝の記述は、時代による誤差も含めて妥当と言えるのではないか。
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船上からの志賀島全景
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船着場にある金印のモニュメント
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第5章 邪馬臺国と邪馬壹国
筑後川からしばらく行って、高台に出た。この奥に卑弥呼がいるらしい。邪馬台国、いや今となっては邪馬壹国の中心に入ったのだ。
伊支馬によれば、中心は卑弥呼の居所する高台だが、人口の多くは平野部で稲作を行っている。だが、邪馬壹国はそれほど大きな国ではないらしい。卑弥呼の宗教的な力で周りの国々を従えているという。しかし魏志倭人伝によれば七万余戸の大国とされている。伊支馬いわく「それは邪馬地方つまり山地方を中心とした20ヶ国ほどの連合体の戸数である」という。倭人伝にある斯馬国から奴国(重出か)までの旁国全体が
女王国として記されているのだ。
ここでなぜ、邪馬臺国ではなく邪馬壹国なのかといえば、三国志にそう書かれているという至極当たり前の理由からである。私たちが目にする魏志倭人伝は、南宋の紹興年間(1131年〜1162年)に刊行された紹興本というものだが、これは邪馬臺国と書かれた五世紀の
後漢書よりも後になる。そこで、壹の字は臺の字の書き間違えであるとして邪馬臺国が正しいとする説が主流になった。そしてそれは、ヤマトと読みやすいことからすっかり定着してしまった。これなら畿内の大和に比定しやすいのである。しかし、臺の字は中国では皇帝にのみ使うもので、卑字の多い魏志倭人伝では使われる可能性はほとんどない。また、三国志の中で同じような書き間違えは一つもない。漢字を持たない倭の人間が口頭で言った言葉の音に基づいて表記したとすれば、壹と臺はまったく違うものであったろう。どちらが正しいかタイムマシンでもない限り明確にはならないと思うが、ここは魏志を写したとされる紹興本を採用することにしよう。私の考えでは、五世紀に書かれた後漢書の邪馬臺国は、九州の邪馬壹国と畿内の大和政権を混同したものと言える。また、魏志倭人伝の記述に関して一部の人が言うように、邪馬壹国への陸行一月を一日の誤りであるとすることは、魏志倭人伝の記述をはじめから信用できないと言っているようなもので、到底受け入れられないことである。原文に忠実に読まなければ意味がない。
伊支馬の案内で、卑弥呼に会えることになった。卑弥呼の宮殿の周りには何重にも柵がめぐらされ、外側には多くの兵士がいたが、中には婢千人が仕え、
男はたった一人きりだという。卑弥呼は鬼道を操る霊能力者であり、神懸かりとなってお告げをするのだそうだ。
残念ながら、私は直接卑弥呼の顔を見ることは許されなかった。伊支馬が取り次ぎをしてくれたが、今一番の関心事は、南にある狗奴国の動勢だという。時々は、今の阿蘇の噴火が見えるところまで出かけていき、神のお告げを受けることもあるそうだ。
魏志倭人伝には、今まで通ってきた国の他に多くの国名が出てくるが、伊支馬の説明ではそれらがどこに位置するのか、はっきりしたことはわからなかった。ただ、
華奴蘇奴国というのは、いまの吉野ヶ里にあたるらしい。
また、投馬国と狗奴国については比較的詳しい情報が入るらしいので次の章で紹介しよう。
女王国・・・・・
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倭人伝の「女王国」をイコール邪馬壹国や倭国の総称とする説もあるが、私は邪馬壹国を中心とした20ヶ国ほどの連合国としたい。この場合、「女王国から以北は道里や戸数を記すことができる」とか、「女王国から以北は一大率を置いて検察している」という記述などから、不弥国までの九州北岸の国々は女王国には入らないとする。
卑弥呼は国々によって共立されたとあることから、以前は沿岸国と山地方の国々で対立があり、呪術に優れた卑弥呼を象徴として立てることにより和平に至ったのではないか?
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後漢書・・・・・
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後漢書では狗邪韓国を倭の西北界としている。魏志倭人伝ではそれは北岸で、邪馬壹国は南にあると書かれていることから、後漢書の当時、倭の中心は東に移っていたとも考えられる。また、狗奴国は女王国より東に海(伊勢湾?)を千余里渡ったところにあり、朱儒国は南に千余里とある。この場合、狗奴国は中部から東海地方にあったといえるのだが?
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男・・・・・・・
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卑弥呼を天照大神であるとする説では、この男を素戔嗚尊(須佐之男命)とするものがある。
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華奴蘇奴国・・・・・・・
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魏志倭人伝では、遠く隔たったその他の国として21カ国を挙げているが、それらを道里がわかっている邪馬壹国より北以外の、東・南・西にあるとすれば、文章のつながりから、不弥国から時計回りに邪馬壹国を囲むように連なっているとも考えられる。そして、3番目に伊邪国(諫山郷か宇佐か)があり、中間の9・10・12番目の国名に阿蘇の蘇の文字が使われているのは偶然であろうか? 華奴蘇奴国を吉野ヶ里に比定したのは、神崎に充てたからだが、はっきりとした根拠はない。華奴国と蘇奴国の合名とする説もある。(旁国21カ国の比定参照)
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邪馬壹国?吉野ヶ里でした
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卑弥呼の墓は円墳?
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ご苦労様です
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ここは邪馬台(大和)国の想定地の一つ。
三輪山の北、矢田明神社付近の石碑。
物部王朝邪馬台国説によるものである。
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第6章 投馬国と狗奴国 MAP4
投馬国が今の宮崎県西都原にあったということは前に述べたが、なぜ一国だけ遠く離れた投馬国の記述があったかと言えば、これは魏の使節が伊都国に留まって一大率らに聞いた話に出てきたからである。五万余戸の大国投馬国は、邪馬壹国と同盟関係にあり、同じように周辺国家を取り込んで連合国を形成していた。東の四国にある国々ともつながりが深く、西は狗奴国の属国と国境を接するという位置にあった。
狗邪韓国から投馬国に行くには、前に述べたように伊都国から東進して関門海峡を通り南下するほか、伊都国には行かず、今の沖の島に立ち寄って南下する
海路もあった。狗邪韓国から水行二十日というのはこちらの日程らしい。
狗奴国は今の球磨地方、人吉あたりが発祥で、朝鮮への道を確保すべく、卑弥呼の時代には熊本市あたりまで勢力を拡大していたようである。狗奴国の王は卑弥弓呼という男子で、卑弥呼とは不和でたびたび戦を重ねていた。長官の名は狗古制(智)卑狗といい、後に勢力下に治めた今の菊池郡にその名を残している。
狗奴国の海賊は八代海から有明海の南にまで出没し、九州西海岸を荒らし回っていた。以前は朝鮮から筑後川流域の国に入るために、西海岸沿いを通って有明海に入る航路もあったが、今では海賊の餌食となることがしばしばであった。噂では中国の呉が島伝いに狗奴国に至り、魏と親交のある北部九州連合に対抗して狗奴国を後押ししているらしいが、真偽のほどは定かでない。
九州以外の倭の情勢はどのようであったのか。次の章に進もう。
海路・・・・・・
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沖ノ島経由で今の遠賀川河口付近に上陸する航路は海北道中と言われる。(参考:高木彬光「邪馬台国の秘密」)
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謎の遺跡、トンカラリンの看板
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トンカラリン内部、卑弥呼の祭祀場?
狗奴国の遺構か?
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トンカラリンそばの江田船山古墳
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江田船山古墳の案内板
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国見ヶ丘から高千穂を見下ろす神々
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神話の里、高千穂の夜神楽
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第7章 倭の情勢 MAP4
九州で邪馬壹国連合、投馬国連合、そして狗奴国連合の三大勢力が覇権を争っていたころ、畿内でも強国が台頭していた。
大和国である。大和国は、今の奈良県大和地方三輪山の麓が発祥で、九州の銅剣文化と異なり、銅鐸を祭祀に用いて周辺国家を勢力下に置き、西への拡大を狙っていた。中国地方には瀬戸内に大国、
吉備国があり、日本海側には
出雲国があったが、後に大和国の勢力下に入ることになる。
狗奴国の侵攻で卑弥呼が死に、その血を引く壱与が跡を継いで本拠地を
宇佐地方に移してからは、しばしば大和国から使者が訪れ、壱与も大和国へと渡り、王としての待遇を受けながら余生を送ることになる。
九州に上陸した大和国軍は、狗奴国や蛮族を南に追いやって、ここに大和朝廷の基礎固めが終わることになるのである。後の古事記や日本書紀はこのような情勢を神話にして語り継いだものをまとめたものである。
大和国・・・・・
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畿内説では、大和へは日本海沿いを経由して敦賀辺りから上陸する説や、瀬戸内航路を採る説などがある。また、魏志倭人伝には銅鐸の記述はない。
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吉備国・・・・・
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邪馬壹国が大和にあったとすると、瀬戸内航路を採る場合、吉備国の記述がありそうなものだが? 瀬戸内地方の高地性集落は軍事的要素の強いものが多く、その変遷は、西から東へ大きな集団の移動があったことを示していると考えられる。
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出雲国・・・・・
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近年多くの重要な発掘が続く出雲地方だが、投馬国に比定した場合、南へ行くとする方角が瀬戸内以上に合わなくなる。従来、畿内説の拠り所の一つとなっていた「混一彊理歴代国都図」(龍谷大学蔵・元代の古地図に行基図を合わせたもので、日本列島が九州を北に、北海道を南にして伸びている)についても、同じものを基にする別の地図(島原市本光寺蔵・日本列島は東に伸びている)の存在があり、古代の地理観がどうであったかは確定できない。(このことは原田実氏や奥野正男氏も指摘)いずれにしても、狗邪韓国から見て真東にある出雲を投馬国と比定することは無理があろう。大和についても同じことが言える。
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宇佐・・・・・・
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邪馬壹国の有力な比定地(富来隆氏、高木彬光氏、井沢元彦氏ら)で、祀られている比売大神(宗像三女神)を卑弥呼に擬している。私は卑弥呼よりも壹(臺)与(=豊)の方がつながりが深いと考える。
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畿内説で卑弥呼の墓に
比定されることの多い箸墓遠景
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箸墓の入口に立つ宮内庁の看板
発掘はいつになるのか?
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三輪山のふもとにある大神神社
大和国の中心か?
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宇佐神宮の入り口
ここも有力な邪馬台国の比定地
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第8章 おわりに
帯方郡を出て二十日ほどで狗邪韓国に着き、さらに船で九日、九州本土に上陸してから歩いて一月、筑後川を一日下ってさらに歩き続け、ようやくたどり着いた卑弥呼の国、そこは邪馬台国ではなく、「邪馬の壹の国」であった。
卑弥呼の顔は見ることはできなかったが、伊支馬らの話で倭の姿がいくらか見えたような気がする。魏志倭人伝には、ここで紹介した事柄の他に、風土やまつりごと、身分制度や交易品などについていろいろと書かれており、当時のことを知るうえで大変貴重な資料である。
以上、私の考える「邪馬台国・・いや 「邪馬壹国への道」をご紹介してきましたが、はじめに述べたように、卑弥呼の墓や印綬が発見されない限り、真実はわからないのかもしれない。だが、それだからこそ、この謎が多くの人を魅了してきたとも言える。真の邪馬壹国への道は、まだまだ果てしなく遠いのである。
2001.6.21 一部改訂 by Yuji Shigisawa