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主な邪馬台国比定地 |
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「日本書紀」「古事記」「延喜式」を参考。 |
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諸国名を北九州の各地に比定。 伊都国は太宰府の役割をもつ。後に九州説。 | |
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水行十日陸行一月は、 実地に見聞したものではない。 | |
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神功皇后の時代は殉葬禁止。 卑弥呼の死と墳塚の記事は、倭姫命を葬ったときのもの。 | |
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瀬戸内航路。南を東と解す。 投馬は周防国玉祖郷。 | |
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「委奴」「倭面土」「倭面」「邪馬台」は ともに「ヤマト」で、倭人の宗主国。 | |
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大和の古墳文化が西漸した。 九州は大和の支配下にあった。 | |
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箸墓が卑弥呼の墓。行路は日本海沿いに 敦賀に上陸し大和に入る。 | |
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伊都国起点。投馬は但馬(日本海航路) 邪馬台国へは瀬戸内航路。 | |
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日本海岸沿いの行路。 投馬は出雲。 | |
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一月は一日の誤り。瀬戸内行路。 投馬国は備後国鞆。 | |
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大和朝廷の墓制を表徴する文化の伝播が 畿内から北九州へあった。 | |
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瀬戸内行路で水行すれば十日、 陸行すれば一月と読む。投馬は鞆。狗奴国は熊野。 | |
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「倭人伝」をありのまま読めば近畿説が合理的。 考古学からすれば邪馬台国は大和。 | |
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北九州弥生式遺跡の研究による。 後に筑後説になる。 | |
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瀬戸内行路。 兵庫に上陸すれば陸行一月になる。 | |
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邪馬台国への里数と日程は、 帯方郡からの距離。 | |
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古墳及び出土鏡による。 | |
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邪馬台・大和のトは乙類、 山門のトは甲類。 | |
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南は東の誤り。 投馬国は日向国妻。 | |
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「倭人伝」の日本は邪馬台国が大きく統制している 一つの民族国家で、大和朝廷樹立後。 | |
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倭は南方に連なっていた。 南は東、一月は一日の誤り。 | |
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『魏志』が描く日本の地理を、 南北に長く延長した形態に想定。 | |
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水行陸行は伝聞である。東を南に記録した。 三世紀のヤマト国は40万人で、範囲を広義にとる。 | |
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邪馬台国の王権は、三世紀の中葉には 北九州を含む統属国の上に立っていた。 | |
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不弥国を豊前、投馬国を日向とし、豊後水道から 四国を回って紀伊に上陸、大和に至る。 | |
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直木 孝次郎 |
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考古学の研究成果。また、南を東に読み替え、 『後漢書』「勿吉伝」に東南を東北とした例あり。 | |
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日本列島を南に延びる形にとる。 |
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同茫鏡の分布による。 山門郡には出土品なし。 | |
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一、二世紀頃畿内に成立した政治勢力が 三世紀にさらに成長。これは邪馬台国のほかにない。 |
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戸数より九州説は成立しない。 邪馬台国は畿内文化地帯にあてるのが合理的。 | |
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鳥越 憲三郎(奈良県大和郡山市矢田) 大山 峻峰・白崎 昭一郎(奈良県桜井地方) 小島 信一(滋賀県琵琶湖畔) 江戸 達郎(京都府京都市) 大熊 規矩男(大阪) 立石 厳(吉野から紀州一帯) | ||
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山門郡 |
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畿内大和説から転じる。『外国之事調書』 |
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八女津姫は、後漢の光武帝から 金印を受けた伊都国王であった。 | |
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田油津姫の先代 |
台与が田油津姫である。 「倭人伝」は九州の実地見聞によっている。 | |
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日数を否定。筑後川、有明海を水行した。 卑弥呼の墓は円墳。 | |
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日程記事は大和への行程で、 後代の知識である。 | |
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女山にある神籠石は、 邪馬台国の名残を伝える。 | |
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里数は後漢尺。日数は誇張。 筑後川を水行した。後に肥後玉名郡に遷ったとする。 | |
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距離は魏志の誇張報告。 | |
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諸国名、官名を九州地名から考証する。 | |
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東に海を渡って倭種の国がある。 邪馬台の名は「ヤマト」の音訳。 | |
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「倭人伝」の官名とわが国の古文献に見える 九州地方の地名・人名を考証。 | |
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『記紀』の用字を考証。邪馬台のトの乙音類を 『記紀』の仮名遣いに結びつけることに疑問。 | |
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「ヤマト」という音の類似。 方角の記し方の一致。 | |
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政治的社会の発育度から当然北九州であり、 筑後国山門郡に比定。 | |
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一月は一日の誤り。九州東岸行路。 投馬国は日向の都万にあたる。 |
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邪馬台国は大和に擬した襲人の僭称で、 その地は薩摩・大隅のあたり。 |
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『琉球漫録』に「土語に日本(ヤマト)とは薩摩をいい、 往古大隅・薩摩辺を邪摩台といった」とあるとする。 | |
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一月は一日の誤り。 投馬は薩摩の南部。 |
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日数を否定、方位は南のみを採る。 大陸文化は日本海を経て近畿に。 |
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不弥から邪馬台まで千三百里はわが国の三十六里。 投馬は肥後国益城郡当麻郷。 | |
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肥後国 菊池郡山門郷 |
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『倭名抄』から日向・大隅に類似の地名が無く 菊池郡山門に比定。 |
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水行十日陸行一月は、対馬より 邪馬台国までの距離を示している。 | |
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邪馬台国の名は、 大和に由来して僭称した。 |
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伊都国以遠は放射的読み方をする。 |
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放射的読み方をする。 伊都国より邪馬台国まで千五百里とする。 |
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鉄産地の中心と考えられる早良平野と糸島平野の 南山麓から五十キロ前後の地域。 |
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日程記事は信用できない。 郡より一万二千余里、周旋五千余里による。 |
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一月は一日の誤り。 諸国名を九州地名に推当。水行は筑後川。 |
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宇佐神宮は卑弥呼の古墳の跡に築かれた神社。 | |
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天照大神は卑弥呼をモデルに創作された。 | |
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豊前国京都郡 |
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邪馬台国は邪馬(山)国と台与(豊)国の連合国家。 |
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始め宮崎県東岸だったが、水行速度を一日三十キロとし、 投馬国を宮崎平野、邪馬台国を大分県南部に改めた。 |
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林屋 友次郎 |
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天照大神は推古朝以降に卑弥呼を理想神化もので 歴史的な卑弥呼その人ではない。 |
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放射的読み方。投馬は薩摩の川内盆地。 陸行一月は水行十日に換算。 |
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宇佐山戸説を注目するも、後に邪馬台国は 九州の北部のどこかに存在していたとするにとどめる。 |
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丹(に)の産出地と方位を古代中国の一巡式方位で考証、 末廬国を対極として佐世保市に比定。 |
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九州地名の字音を重視。「まぼろしの邪馬台国」 始め北高来郡・南高来郡、のちに諫早市。 |
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数理文献学による。 邪馬台国=高天原=甘木市一帯。 |
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山門郡は発祥の地。その後、卑弥呼の時代に 久留米市御井町付近に遷り、首都は甘木市付近。 | |
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邪馬壹国への里数は、帯方郡からの距離。 投馬は薩摩。 |
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藤芳 義男(熊本県上益城郡馬見原町〜宮崎県西臼杵郡高千穂町) 松田 正一(福岡県筑紫郡太宰府市近辺) 大羽 弘道(大分県周防灘海中) 藤原 偉作(佐賀県内の筑紫平野) 原田 常治(宮崎県西都市) 高津 道昭(霧島山西側一帯) いき 一郎(北部九州広域) | ||
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大森 忠夫(愛媛県川之江市一帯) 古代阿波研究会(徳島県・阿波国) 奥平 里義(山梨県) 加瀬 禎子(南洋の島・フィリピン) 木村 鷹太郎(エジプト) 内田 吟風(ジャワ・スマトラ) | ||