魏志倭人伝5
 倭では、男子は成人も子供も皆顔や体に入墨をしている。
昔から倭の使が中国に来るとき、皆大夫と称する。
夏王朝の六代の王少康の子が、会稽(カイケイ)郡に封ぜられたとき、断髪して入墨し
海中にひそむ龍の害を避けたという。
今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕らえ、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。
倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などにちがいがあり、身分の尊卑によっても異なる。
 帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶(トウヤ)縣の東にあることになろう。











魏志倭人伝5a
 倭の風俗は折り目正しくきちんとしており、男子はみな冠をかぶらず、木綿の布で頭をまき、衣は幅広い布をただ結び束ねるだけで、縫うことはない。
婦人はお下げや髷を結ったりして、衣は単衣のようにし、真中に穴をあけて頭を通して着るだけである。
人々は稲・麻をうえ、桑・蚕で紡績し、布・絹・真綿などを産出する。
その他に、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)はいない。
兵器には、矛・楯・木弓を用い、木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鐵鏃(テツゾク)や骨鏃を用いる。
要するに、これらの産物や風俗などをみると、タン耳(タンジ)・朱崖(シュガイ)と同じである。












魏志倭人伝6
 倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる。
人々ははだしで生活し、家をたてるが、父母兄弟はそれぞれに居所を異にしている。
朱・丹を体に塗るのは、中国で白粉を用いるようなものだ。
飲食には高坏を用い、手づかみで食べる。
死ぬと棺に納めるが、槨(棺を覆う施設)は作らず、土を盛り上げて冢(チョウ)をつくる。
死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲食する。
埋葬すると、一家をあげて、水中でみそぎをし、中国で一周忌に練絹(ネリギヌ)を着て沐浴するのとおなじようにする。
 倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服してい人のようにさせて、これを持衰(ジサイ)と名づける。
もし、航海が無事にゆけば、彼に生口(セイコウ)・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。
つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。






魏志倭人伝7
 倭の地には、真珠・青玉を産する。
山には丹が出る。
樹木としては、たん(クス)・じょ(トチ)・くすのき・ぼう(ボケ)・れき(クヌギ)・とう(スギ)・きょう(カシ)・うごう(ヤマグワ)・ふうこう(カエデ)があり、竹には、しょう(ササ)・かん(ヤタケ)・とうき(カヅラダケ)があり、また、きょう(ショウガ)・きつ(タチバナ)・しょう(サンショウ)・じょうか(ミョウガ)もあるが、滋味ある食物として利用することは知らない。
また、びこう(オオザル)・きじ もいる。
 その通俗の行事や旅行にさいして、何かしようとすれば、骨を灼いて吉凶を占い、まず占うところを告げ、その解釈は中国の亀ト(キボク)の法のように、火で焼けたひびわれをみて兆しを占うのである。











魏志倭人伝8
 その集会や居住の坐位には、父子男女の区別はなく、人々は生来酒が好きである。
支配身分の人に尊敬を示す作法は、ただ拍手をして、中国の跪拝(キハイ=ひざまずき拝する)の礼にあてているようだ。
人の寿命は、あるいは百年、あるいは八十〜九十年で、支配身分の者はみな四、五人の妻をもち、一般の村民でも二、三人の妻をもっている。
婦人は淫らでなく、嫉妬もしないし、盗みもなく、争いごとも少ない。
法を犯せば、軽いものは妻子を没官され、重いものは家族と一族が殺される。
身分の差別は守られ、秩序はよく守られ、租税、賦役を収め、そのための建物がたてられ、国々には物資を交易する市があり、大倭(倭人中の大人)に命じて、これを監督させている。・・・次ページへ続く












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