銅剣・銅戈・銅矛


朝鮮半島で発達した青銅武器は、弥生前期末の北九州にもたらされた。
舶載された細形青銅武器は日本で作られると、中細形、中広形、広(平)形へと変遷したが、それはそのまま実用の武器から青銅武器形の祭器として非実用のものへと性格的な変貌を示している。
これは、前者が主として墳墓から副葬品として出土するのに対し、後者の多くが埋納遺跡から発見されていることにも対応している。

銅剣では細形が北九州中心で、中細・中広ではむしろ中国・四国に多く、平形は大分県の一部を含む瀬戸内海沿岸に多い。

銅戈は細形では銅剣よりも分布が広く佐賀・熊本・大分に拡がり、中細は大分県から一部四国・中国にも拡がっている。
中広・広はほぼ北九州だけで分布しており、広形はごく少数。
大阪湾型は大阪府・兵庫県・和歌山県の大阪湾沿岸に限定されており、大阪府東奈良で鋳型が発見されている。

銅矛は細形が福岡・糸島・唐津の各平野など西北九州、中細形は九州から瀬戸内海沿岸にも散見する。
中広形は対馬から北部九州、四国南西部・瀬戸内海沿岸に拡がり、広形になると対馬で特に多くなり、愛媛県西部・高知県西部に顕著。
このことから中広形・広形銅矛の対馬・北九州・南西四国との関連の強さがうかがわれる。
これは、邪馬台国九州説が多く採る、東にある倭種の国・侏儒国は四国という説に関連しておもしろい。

いわゆる銅鐸文化圏と銅矛文化圏は銅鐸の鋳型が北九州で発見されたことなどから、あまり意味のないこととなってしまった感があるが、銅鐸が完全になくなってしまったことなどを考えると、銅鐸中心の地方と北部九州に、何らかの対立があったことは否定できない。


祭祀の変化 ↑弥生時代中期(青銅器)

        ↓弥生時代後期(青銅器・墳墓)  

弥生時代後期になると、それまでの青銅器祭祀に代わって、出雲から北陸にかけては四隅が突出した墳丘墓が見られるようになり、今の岡山県地方では2方向に張り出し部のある墳丘墓があらわれる。
これは青銅器祭祀の終わりを告げると共に、出雲日本海地方・吉備地方の独立した地域性を示すものとして興味深い。

私の考えでは、北部九州から四国西部に拡がった邪馬台国連合畿内の大和国連合出雲日本海連合吉備国といった勢力関係がこれらの分布にあらわれていると思われる。