▼ SUBJECT=倭国、邪馬壱国そして邪馬台国 ▼ NAME=夢見五十男さん ▼ EMAIL=takehimu@maple.ocn.ne.jp 倭国、邪馬壱国そして邪馬台国 内容文… 倭国名。 倭国三十国比定。 魏志倭人伝の方角文字。 倭王権の変遷(邪馬壱国の誕生)。 大八島国比定。 邪馬台国の誕生。 筑紫と竺紫 「原意」と簡単な「原意読み」の例。 先ず初めに私の勉強方法を簡単に説明します。 私達日本人の言葉の中には、一音で物の形を表す「胃。蛾。江。背」等の言葉があります。 これらの一音で物の形を表せるのは漢字があるからだとも言えますが、 しかしもう少し深く考えてみますと、漢字は物を表す言葉の上にかぶせたものです。 つまり、言葉が先に生まれ漢字は後から発生した事は誰でも理解できることです。 人間のコミニケーションの始まりを、私は身振り手振りと単発声音から始まり、 現代の複雑な言語体系へと発展してきた考えます。 そこで、人間の言葉の始まりはどんなだったろうかと初めから考えたわけではありませんが、 国語辞典の一音読みで意味の異なる同音漢字を複数列べてそれぞれの意味を意識しながら共通点探しを数年した結果、 五十音各音に対して私なりに共通点を抽出しました。 そして五十音各音の共通点を「原意」と呼称し、「原意」に照らして言葉を解析することを「原意読み」と呼称しました。 (*;本文最後に「原意」と「原意読み」の例を書きます) 私が理解した倭国名 遠い昔の原日本に対して、漢字を開発し普及させた中国は「倭国」と名付けました。 1776年に独立したアメリカに対して中国漢字は「美国」と名付け「日本漢字は「米国」と名付けました。 現代の私達からすると中国漢字は不思議な性格を持っています。 アメリカという音であるからアメリカという漢字を冠すれば分かりやすいかと考えますが、「アメリカ=美国」です。 日本漢字も中国漢字を引き継いでいますから「米国」と名付けましたが、原日本が倭国。中国漢字が表すアメリカは美国。 日本漢字が表すアメリカは米国。この関係をこれまで考えた人がいるでしょうか? 私は、私が開発した言語解析法である「原意読み」によって、私なりの理解をしましたのでここに書いてみます。 まず倭国を考えますと、 後記する倭国統一体制と倭王権変遷で分かりますが、倭王位に就いた国王は、 倭王権の交代があっても殺されずに新倭王体制内に従属連合されます。 中国内での王朝交代時には、前王は必ず殺されますが、 こんな体制の中から見た倭国内倭王権変遷は倭王権の委譲・委任に見えるかと考えられます。 こんな考えの元に倭国の「倭」を見てみますと、”人(人偏)に委任する。他人に委譲する”という意味を表していると考えます。 つまり倭王権を倭国内の他の国王に委任する国です。 では、倭国人は自国をどう表現したかと言えば、「アメリカ=美国」ですから「倭国=ジャパン。ジパング」です。 この倭国人が自国を表す「ジャパン。ジパング」の表現がアジア地域からヨーロッパに伝わり維持されて残っていると考えます。 中国漢字が表す「アメリカ=美国」。ここでは先ず「美」の漢字がどんな意味・形を持っているかを考えてみます。 美を漢和辞典で調べてみますと、 その@よし(味甘し。うまし。義正し。ただし。ほむべし。よみすべし。このまし。みめよし。うるはし。うつくし。みごとなり。りっぱなり。はなやかなり)とあります。 しかし、これらの意味は、結果の総形のみを表して ”どうして・どうなっているから”「うまいのか? ただしいのか? ほむべしなのか? うつくしいのか? りっぱなのか?」を表現していません。 例えば、 「うまし(美味)」を考えてみますと、甘いだけ、辛いだけでは旨くありません。 味の基礎感覚である「辛味。酸味。甘味。苦味」がバランス良く調合されて旨くなります。 「(この花は)美しい」といった場合の「うつくしい」は、 一枚の花びら上に色の変化を持った複数の花びらがバランス良く列び、「うつくしい」と表現されると考えます。 また「りっぱ(立派)」の漢字の派は、”枝わかれしたもの。わかれた系統”という意味ですから、枝分かれして独立したという意味になります。 この立派が小さな意味で使われるのが、人をほめるときの「まあー立派になって」と”親から独立して独自の道を歩む人”に使われると思いますが、 「美の意味の中の立派」は、イギリスから独立し独自の道を作り上げたアメリカと成ります。 そして、アメリカ独立の国内事情の初めは、十三州が議会制という方法によりバランス良く一体化した、となります。 「原意読み」による「美」の漢字の意味することは、複数の「素材。国」等がバランス良く調合統一されて一つの形が完成したことを表します。 したがって上記の複数の意味が出てくることに成ります。 「伊邪那美命」の「美」も倭国内全組織をバランス良く組織化した事を表しています。 日本漢字が表す「アメリカ=米国」。アメリカを想定して米を「原意読み」しますと、「複数の国(州。部族)組織が独自組織を為す、 そのリーダーが一体に集まる」というように読めますから、連合体をつくった国という意味になります。 また、米の元である稲穂の形から想像しますと、中心となる軸に複数の国(州=米粒)がくっついた形と想像できます。 倭国三十国比定 (*;倭国三十国比定図と後記の大八島国比定図を入れたいんですが、私の知識・技術では入りません。 もし比定図がほしい方は”takehimu@maple.ocn.ne.jp”にメールください。お送りします。 魏志倭人伝に書かれた倭国名三十国をこの「原意」に照らして「原意読み」しますと、地形と勢力体系が表れます。 また魏志倭人伝文中官名や古事記文中神名を「原意読み」しますと、倭王組織体系が表れ、 現代九州内地名を「原意読み」しますと、弥生時代と思える地形と出来事を読みとることが出来ます。 こんな勉強から比定した倭国三十国。 1 狗邪韓国…朝鮮半島南端のある範囲。 2 対馬国…対馬。 3 一大国…壱岐。 4 末盧国…東松浦半島仮屋湾の東側。 5 伊都国…糸島半島と前原市を含む範囲。 6 奴国…福岡平野。 7 不弥国(狗奴国と同一国)…海の中道と新宮町、古賀町周辺。 8 投馬国…熊本県の緑からを境界として宇土半島より。 9 邪馬壱国…筑後川の西側で鳥栖市から嘉瀬川までの範囲。 10 斯馬国…東松浦半島の仮屋湾の西側から伊万里湾を含んで北松浦半島の先端部から平戸島も含む。 11 已百支国…佐世保湾と佐世保湾に面した範囲を中心とした範囲。 12 伊邪国…有明海に面して嘉瀬川を邪馬壱国との境界とし、鹿島市までの範囲。 13 都(郡)支国…西彼杵半島。 14 弥奴国…島原半島、諫早市から長崎半島まで。 15 好古都国…天草上・下島。 16 不呼国…鹿児島県の長島、阿久根市、出水市周辺。 17 姐奴国…八代平野。 18 対蘇国…熊本県の緑川支流である加勢川・木山川と緑川の間の嘉島町、益城町、御船町、甲佐町範囲。 19 蘇奴国…木山川と白川の間で江津湖の東方範囲。 20 呼邑国…加勢川と白川の間で江津湖の西方範囲。 21 華奴蘇奴国…白川の西北方で合志町、西合志町、泗水町、菊池市、七城町範囲。 22 鬼国…金峰山を主体とした範囲。 23 為吾国…菊水町、鹿央町、植木町範囲周辺。 24 鬼奴国…諏訪川当たりを邪馬国との境界とした大牟田市、荒尾市、玉名市周辺範囲。 25 邪馬国…有明海に面して高田町、大和町、柳川市周辺範囲。 26 躬臣国…筑後川に面した東方で大川市から久留米市ぐらいの範囲。 27 巴利国…久留米市上流の筑後川南方に面した田主丸町、吉井町周辺範囲。 28 支惟国…久留米市上流筑後川北方に面して筑後川に合流する小石原川と筑後川の間になる甘木市、朝倉町を含む範囲。 29 烏奴国…筑後川北方鳥栖市あたりで邪馬壱国と接し、小石原川あたりで支惟国と接して小郡市、夜須町、三輪町範囲。 ここに二度目の「奴国」が入っていますが、一度目は二極倭王体制の「倭女王・卑弥呼」体制であり、 二度目は「狗奴国」体制の同じ「奴国」が入っている。 (*;次項の魏志倭人伝文中の方角文字の二極倭王体制参照) 30 狗奴国…「倭女王・卑弥呼」体制では「不弥国」。「狗奴国王」倭王体制では「狗奴国」と成ります。 魏志倭人伝文中の方角文字 (*;私の感覚では、「魏志倭人伝」文中の倭国内三十国紹介に於いて、 魏の使者は郡使常に駐まる「伊都国」までは来て「伊都国」に駐められたと思います。 したがって、「伊都国」より後から紹介された国々は漢字に通じた渡来人か漢字に通じた倭人が書き、 魏の使者に説明したと考えますが、偽りが感じられます。 その@に「女王国より以北の其の戸数道理は略載する事が可能だが其の餘旁国遠絶にして詳しく分かりかねる」と書きながら、 九州北部の国々と「投馬国。邪馬壱国」を紹介の後、他の国々を有明海を中心にして反時計回りに順序よく列べて紹介しています。 そのAに、「邪馬壱国」の紹介で倭国の国土範囲を中国と同じ位に大きく南へ南へと広がると感じさせる書き方をしています。) 私は、魏志倭人伝文中の方角記載を無視して倭国三十国を先に「原意読み」比定し、その後に方角文字「東南。東。南。北(以北)」を考えましたが、 この方角文字を方角と考えたならば倭国は絶対に現れないと思います。 方角意識・方角文字は広大な中国にとって必要不可欠かと思いますが、私の比定した九州内約二分の一の狭い倭国にとって、 また倭国内倭王体制が倭国内全国組織を単一組織に組織して率いる狭い倭国内にあっては方角意識よりも、 誰々の国・何処そこの国といったほうが的確な位置伝達が可能かと考えます。 それにも関わらず倭国内を方角文字で紹介するのは、方角意識が身に付いた魏の使者のためと、 倭国を中国と同じ位に大きな国であると錯覚させる為の手段かと感じられます。 私は「原意読み」によって魏志倭人伝文中の倭王体制を理解し、 その倭王体制との比較の上で方角文字を「原意読み」した結果、次のように読むことが出来ました。 (注;後述の二極倭王体制参照) 東南… 「狗奴国王・卑弥弓呼」倭王体制と成った、「倭女王・卑弥呼」組織を組織内した「好古都国王」組織を率い、 「倭女王・卑弥呼」体制と成った「糸島王」組織を勢力内にする「奴国」。と成ります。 したがって、「末盧国」から東南陸行五百里「伊都国」に到ると「伊都国」から東南「奴国」に至る百里の東南は、「奴国」に向かってと解釈します。 (注;「到」の漢字は、倭国勢力圏に入った「狗邪韓国」と「卑弥呼。弥奴国王。斯馬国・愛比売地区王」のいる「伊都国」に入った時だけ使われている) 東…… 「倭女王・卑弥呼」倭王体制を勢力内にする「好古都国王」組織を組織内にした、「狗奴国王・卑弥弓呼」の「狗奴国(不弥国)」。 したがって、「奴国」から東行「不弥国」に至る百里の東行は、倭王権を持った「狗奴国王・卑弥弓呼」の「狗奴国(不弥国)」に向かってと解釈します。 (注;倭国内の国名。官名。人名は総て権力・勢力体系を表現して成り立っています。したがって、私の比定した「不弥国=狗奴国」の「不弥国」は、 「倭女王・卑弥呼」体制の国名表現であり、「狗奴国」は「卑弥弓呼」倭王体制の国名表現かと考えます。) 南…… 倭国内全組織を組織内にした「糸島王」組織を勢力内にする「倭女王・卑弥呼」の母国「邪馬壱国」。 したがって、「邪馬壱国」に向かって水行二十日で「投馬国」に至り、「投馬国」から更に「邪馬壱国」に向かうと水行十日、 陸行すると一月で、帯方郡の使者が常に駐まる「伊都国」から「倭女王・卑弥呼」の母国「邪馬壱国」に至ると解釈します。 このように考えますと、「伊都国」から「投馬国」に比定した宇土半島の先端まで二十日の日数を要し、 宇土半島の先端から島原湾・有明海を船行すると「邪馬壱国」まで十日を要し、宇土半島先端から陸上を通って「邪馬壱国」まで行くと一ヶ月かかると解釈します。 上記「伊都国」から「投馬国」までの二十日と「投馬国」から「邪馬壱国」までの十日の日数を地図上の距離感で見てみますと合致すると思いますがいかがなものでしょうか。 (*;投馬国と宇土半島…「投馬国」は緑川を境界にした宇土半島よりですから、平野部も広く五万余戸でも不具合はないかと考えます。 そして宇土半島の先端というのは、「宮崎康平氏のまぼろしの邪馬台国」に大矢野島と千束蔵々島と戸馳島、 そして宇土半島の先端に囲まれた範囲はチョとした台風などでは波も穏やかで良港もあり、船の避難場所にもなるというようなことを参考にしました) 北(以北)…現代感覚で文字のごとく”北の方向”と読めば、「倭女王・卑弥呼」の母国 「邪馬壱国」が、佐賀県の神崎町・三田川町を中心とした範囲ですから、 「末盧国。伊都国。奴国。不弥国」は「邪馬壱国」の北方になります。 また北を「ホク」読みして「原意読み」しますと、「弥奴国王」を従属連合する「狗奴国王」体制「倭女王・卑弥呼」を組織内にした、 「狗奴国王」体制「奴国王」の組織が集まる範囲とも読めます。 二極倭王体制 「古事記」文章 神世七代の「意富斗能地神(卑弥呼)。大斗乃弁神(投馬国王)」倭王体制(投馬国内)で倭国内全組織をまとめ率いた「好古都国王」組織を味方に引き入れ、 倭王権を獲ったのが「於母陀流神(斯馬国・伊万里地区王)」で、「於母陀流神」は、常に自組織内となる「奴国王」体制内の「不弥国」に倭王権を構えます。 そして倭国内初発の倭王権を構えた「天之御中主神(弥奴国王)。高御産巣日神(好古都国王)。 神産巣日神(斯馬国・愛比売地区王)」の子孫の内の「好古都国王」を「不弥国」内の志賀島に軟禁拘束し、 「弥奴国王と斯馬国・愛比売地区王」は、「倭女王・卑弥呼」勢力下にして「伊都国」の「糸島」に拘束軟禁します。 しかし渡来人組織である「奴国王」同盟組織をまとめ率いる「糸島王」組織は、本来「斯馬国・愛比売地区王」体制の組織であって「糸島王」に委譲された勢力です。 この体制を利用して「倭女王・卑弥呼」は、倭国内倭王勢力の一翼である「糸島王」組織を味方に引き入れます。 一方の「於母陀流神(倭国内勢力体系が変わり狗奴国王に変名すると考える)」倭王体制が勢力内とした倭王勢力の一翼である「好古都国王」組織は、 「倭女王・卑弥呼」組織を内包した組織で、平常の倭王体制であれば最下部組織となって倭国内全組織を常に自組織内に組織化します。 この「狗奴国王・卑弥弓呼」体制と成った、「倭女王・卑弥呼」組織を組織内とする「好古都国王」組織が「奴国」内に構え、 一方の「倭女王・卑弥呼」体制内となった「糸島王」組織が「伊都国」に構えて、二つの倭王勢力が対峙する状態が魏志倭人伝文中の倭国内状況です。 この複雑きわまりない権力体系の中で「倭女王・卑弥呼」は、統一倭王権を求めて藻掻いていることになります。 そして、「倭女王・卑弥呼」が死んだ後、倭国を統一したのが「卑弥呼」の後を継いだ「壱与(伊耶那岐命)」と「狗奴国王」倭王体制となった「好古都国王」の後を継ぎ、 母国体制内で「好古都国王」組織を組織した次代の「好古都国王(伊邪那美命)」です。 倭王権の変遷 「原意読み」により得た倭国の統一から「邪馬台国」への経過をここに簡単に記してみます。 先ず、「古事記」文章による「弥奴国王(後の天之御中主神)」が以前より「好古都国王(後の高御産巣日神)」と連合体制を結んでいましたが、 渡来人組織である「奴国王」連合を勢力内にした「斯馬国」組織に従属されて、「奴国」体制内「斯馬国王」倭国統一体制が生まれます。 この時点での倭国勢力体系は、(倭国内の国数を百余国に比定できませんので二十九ヶ国とする) 「弥奴国王」同盟国が 「弥奴国。都支国。已百支国」と熊本平野内の「鬼国。華奴蘇奴国。為吾国。鬼奴国」の七ヶ国。 「好古都国王」同盟国が 「好古都国。不呼国。姐奴国。呼邑国?」と「投馬国。対蘇国。蘇奴国」の七ヶ国。 「斯馬国」が単独国ですが、渡来人組織の「奴国」同盟勢力を勢力内にしている。 盟主王は伊万里湾に面した国王で「斯馬国・伊万里地区王」勢力内となった総ての勢力は、北松浦半島先端部と平戸島勢力内にした「斯馬国・愛比売地区王」の元に委譲されている。 「奴国王」同盟国が「奴国。不弥国。伊都国。末盧国。一大国。対馬国。狗邪韓国」と筑紫平野の「烏奴国」勢力内となる国。 (*;筑紫平野に面した国々は、後に「卑弥呼」勢力内となりますが、「卑弥呼」体制での国は、「伊邪国。邪馬壱国。烏奴国。支惟国。巴利国。躬臣国。邪馬国の七ヶ国) このようになり、 この倭国内全勢力が「斯馬国・伊万里地区王」をトップにして組織化され、 先ず初めに、この倭王勢力は「斯馬国・愛比売地区王」に委譲されます。 次にこの倭王勢力は「奴国王」に委譲され、次に「伊都国王」に委譲され、次に「(*)末盧国王」に委譲され、 次に「弥奴国王」同盟組織を組織内にして「斯馬国・奴国」体制に従属連合された「好古都国王」に委譲されます。 (*;末盧国王…魏志倭人伝の「倭女王・卑弥呼」時代は、「奴国王」体制組織を「伊都国」内の「糸島王」組織がまとめ率いていますが、 初めの頃は「末盧国王」組織内に組織化されたと考えます。そして、「斯馬国王・奴国王」倭国統一時に、「末盧国王」は、倭国内では慣習的にしては成らない事、 つまり「好古都国王」組織内に組織化された「弥奴国王」に一体である「弥奴国王組織」を自組織内に従属連合し, 「弥奴国王」倭王体制復活時に大陸との交易に絶対必要な「対馬国」に国組織を移されたと考えます。したがって「末盧国」には官名が記されていないと考えます。) 結果として、最下部組織となった「好古都国王」の「好古都国王」組織が倭国内全組織をまとめ率いて、「斯馬国・伊万里地区王」に従う形と成りますが、 この体制の中で、元々「弥奴国王」体制である「好古都国王」を「弥奴国王」が取り戻しますと、 「好古都国王」組織に組織化された倭国内全組織が「弥奴国王」をトップにして組織化され、「斯馬国・伊万里地区王」に従った「斯馬国・愛比売地区王」は、 「好古都国王」を勢力下にしたまま「弥奴国王」の倭王組織内に入って、 「天之御中主神(弥奴国王)。高御産巣日神(好古都国王)。神産巣日神(斯馬国・愛比売地区王)」体制が「弥奴国」内に確立しました。 そして、この後の倭王体制の変遷の中で倭国内他組織盟主王が倭王権を獲ると、「弥奴国王。斯馬国・愛比売地区王」は一緒になって他組織倭王体制内に拘束軟禁され、 「好古都国王」は他組織倭王体制に従属連合されて、他組織倭王体制内となり、倭国内全組織を組織化した「好古都国王」組織を率います。 上記倭王体制が数百年の期間続き、権力体系をそのまま固有名詞として代々引き継ぐ倭国内風習を知らない中国「秦の始皇帝」時代に、 東海に三神山(天之御中主神。高御産巣日神。神産巣日神)有り、数百年生き続ける仙人が住むという噂がありました。 この噂を種に不老長寿の薬を採ってくると「秦の始皇帝」に上申し、 「秦の始皇帝」の援助を得た「徐福」は、若い男女3000人と五穀の種と多くの技術者を引き連れた数十艘の船で橘湾に入り込み、 倭国倭王体制のある長崎県諫早市の東の(注)愛野町周辺に座礁し、倭国倭王体制に収容されて、 渡来人組織の「奴国王」体制内であった筑紫平野の神崎町・三田川町周辺に居住地を与えられます。 (注;愛野町周辺…私の勉強では、弥生時代の愛野町周辺は低地であり、湾に高潮が起きると地表が潮で覆われて橘湾と有明海が通じてしまう地形であった) 神崎町・三田川町地域に居住地を与えられた「徐福」一行は、有明海に起きた高潮が筑紫平野を覆う岸辺に、中国から持参した鉄器を使い水田を開墾します。 これまでにも九州北部に水田がありましたが、規模の違う大水田地帯です。 そして、水田技術を倭国内の他の国々に広めて同時に勢力を拡大し、 「奴国王」体制であった筑紫平野の国々を「邪馬壱国」→「伊邪国」→「邪馬国」→「躬臣国・巴利国」と自組織内に組織化し、 最下部組織となった「躬臣国・巴利国」組織が「徐福(卑弥呼)」同盟勢力をまとめ率い、倭王勢力をまとめ率いる「好古都国王」組織内に連合します。 (*;「烏奴国。支惟国」は倭王体制を獲った組織内に優先的に連合する) そして倭国内全組織を自組織内に組織化する「好古都国王」組織を自組織内に一体化し、 自組織内となった「好古都国王」組織内に自組織を委譲して「好古都国王」と「好古都国王」組織を自組織内としました。 すると「好古都国王」組織に組織化された倭国内全組織が「好古都国王」組織と共に「徐福」体制内になります。 このようにして二代目倭王権を獲ったのが「宇摩志阿斯訶備比古遅神」の神名を持った「徐福」と考えます。 したがって、倭王権取得経歴を表す一番長い前書きと一番長い神名をもち、その紹介の始まりが「国稚(くにわかく)」から始まり「葦牙の如く萌え騰る物に因りて成れる神」で終わります。 「国稚(くにわかく)」とは、読みのままで倭国内に出来た新しく若い国と読み、 「葦牙の如く萌え騰る物に因りて成れる神」は、自分たちが開拓した大水田地帯の葦・稲が伸びるような勢いで勢力を拡大し、倭王権を獲った神の名はとなります。 このようにして倭王権を獲ったのが「宇摩志阿斯訶備比古遅神(徐福か徐福の子孫)」と「天之常立神(斯馬国・伊万里地区王)」の倭王体制です。 ここに「邪馬壱国」が誕生し、倭王体制が「邪馬壱国」内の神崎町地域に構築されました。 (*;この倭王体制以降には「卑弥呼」が倭王となっても「邪馬壱国」内に倭王体制が構築されなかった。したがって「吉野ヶ里遺跡」の年代間は前100年から紀元前後といわれる) この倭王体制が「吉野ヶ里遺跡」を残した「卑弥呼」の先祖の「徐福」倭王体制だと私は確信しています。 「徐福」は、「秦の始皇帝」が死ぬ前に東海の海に出ていますから、「秦の始皇帝」が死んだ紀元前210年には倭国に来ているはずです。 そして、次の「国之常立神(奴国王)」倭王が西暦57年に後漢に朝賀して「漢委奴国王」の金印を賜っていますので、 「奴国王」が西暦55年に倭王権を獲ったと仮定しますと、この間210+55=265年に成ります。 この約265年の間に「徐福」組織は倭王権を獲り倭王位を維持したと考えます。 吉野ヶ里遺跡については 「日本古代史と遺跡の謎…自由国民社」の中で「松尾光氏」は、「まず第一に遺跡の年代観が合わない。吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生中期にあり、 中国・朝鮮半島との交流を示す把頭飾付有柄銅剣・ガラス製管玉も、 また墳丘墓も弥生中期、実年代で紀元前100年〜紀元前後のもので、230年〜70年という卑弥呼の時代に合わない。 また内壕構造も弥生後期前半の事で、邪馬台国時代に残っていたとしても、すでに集落として衰微していたろう。」と述べています。 そうです、「卑弥呼」の名前は、「桓霊間(148〜189)倭國大亂 更相攻伐歴年」共立の形で倭王位に就く時が最初です。 そして248年頃死んでいますから何代かの「卑弥呼」がいたはずです。しかし吉野ヶ里遺跡とは年代的に一致しないのが当然です。 次に「宇摩志阿斯訶備比古遅」倭王体制から倭王権を獲った「国之常立神(奴国王)」は、 倭王勢力を自組織内に組織化する「好古都国王」組織を自組織内にした「豊雲野神(卑弥呼)」を副臣にして、「奴国」体制内に倭王体制を構築しました。 この倭王体制の崩壊時「桓霊間(148〜189)更相攻伐歴年」「卑弥呼」を共立の形で倭王とし倭国の統一が為されますが、 倭国内の長い戦いは、この時と「狗奴国王」対「倭女王・卑弥呼」の戦いがあり、いずれも渡来人組織の倭王体制時で同種族・同出身の新旧の戦いです。 つまり、倭国内の倭王体制は、倭王体制誕生時の倭王勢力を総て抱え込んで維持します。そして倭国内全体の統制は、 倭王体制に準じた組織体系を造り倭王体制に従いますが、長い年月の間に倭王体制内倭王勢力の風紀が緩みます。 すると、倭国初発の倭王体制を構築した「弥奴国王。好古都国王」体制の母国勢力が、倭王権の権利は自分たちのものだと蜂起し戦いますから決着がつかず、 倭国内の食料事情を改善し文化文明をもたらした「徐福」の子孫である「卑弥呼や壱与」を共立の形で倭王位に就けることになります。 次の倭王体制は「奴国」体制内で「宇比地邇神(倭女王・卑弥呼)」と「須比智邇神(斯馬国・伊万里地区王)」 次が「投馬国」内で「角杙神(投馬国王)」と「活杙神(倭女王・卑弥呼)」 次が「投馬国」内で「意富斗能地神(倭女王・卑弥呼)」と「大斗乃弁神(投馬国王)」 次が「奴国」体制内で「於母陀流神(斯馬国・伊万里地区王)」と「阿夜訶志古泥神(奴国王)」 この倭王体制が「魏志倭人伝」に書かれた「狗奴国王・卑弥弓呼」倭王体制の始まりですが、 「伊都国」の「糸島」に拘束軟禁した「倭女王・卑弥呼」に倭王勢力の一翼である「糸島王」組織を奪われて、「狗奴国王・卑弥弓呼」体制と「倭女王・卑弥呼」体制の対決姿勢に成ります。 次に「筑紫国(弥奴国)」内で「伊耶那岐神(倭女王・壱与)」と「伊邪那美神(好古都国王)」 この倭王体制は、倭国内の三十国(二十九国)を八つに区分した大八島国を制定しました。 大八島国比定図 淡道之穂之狭別島は…「邪馬壱国。伊邪国」範囲 伊予国は…「斯馬国・愛比売地区」 讃岐国は…「斯馬国・伊万里地区と斯馬湾地区(東松浦半島の西側範囲)」 粟国は…「末盧国。伊都国」範囲 土佐国は…「奴国」範囲 隠伎之三子島は…「不弥国」範囲 筑紫国は…「弥奴国。都支国。已百支国」範囲 豊国は…「好古都国。不呼国。姐奴国。投馬国。対蘇国。蘇奴国。呼邑国」範囲 肥国は…「鬼国。華奴蘇奴国。為吾国。鬼奴国」範囲 熊曾国は…「邪馬国。躬臣国。巴利国」範囲 壱岐島は…「一大国」範囲 津島は…「対馬国」範囲 佐度島は…「五島列島」範囲 大倭豊秋津島は…「烏奴国。支惟国」範囲 邪馬台国の誕生 そして、「伊耶那岐命、伊邪那美命」倭王体制は、倭国初発の倭王国である「弥奴国」内(大村市周辺)に倭王体制を構築します。 ここで「魏志倭人伝」文中の「因って臺を詣で上男女生口三十人、…を献ず」と書かれた「臺」を私は「邪馬臺国」の「臺」であると考えすが、 「臺」を漢和辞典で調べてみますと、 台(臺)…@支那古昔、三公の象とせし三星。A転じて、三公の地位。とあります。 この「臺」の意味を私は、「倭国内の三星。三公」と解釈し、 倭国初発の倭国統一をなした「天之御中主神(弥奴国王)。高御産巣日神(好古都国王)。神産巣日神(斯馬国・愛比売地区王)」の子孫と想定するんです。 この三神は、表面上完全に「伊耶那岐命」倭王体制内に内包されてしまっています。 結果として、「倭女王・壱与(伊耶那岐命)」の母国である「邪馬壱国」の勢力下に成った倭国の「三星。三公=臺」の国と読むことが出来ます。 では、倭国内の「三星。三公」を勢力内にした「倭女王・壱与」が、「三星。三公」の基本国である「弥奴国」に倭王権を構えるに当たり、 なぜ「因って臺を詣で上男女生口三十人、…を献ず」と書かれているかというと、一つには倭国初発の倭王国である「弥奴国」に敬意をはらったお披露目のご挨拶かとも思えますが、 しかし、「弥奴国」内大村市周辺の「伊耶那岐命」倭王体制は、完全に「倭女王・壱与」体制組織が統一したのでは無く、次のような組織体系に成っています。 倭王…「伊耶那岐命(倭女王・壱与)」 鬼国王…「倭女王・壱与」組織を勢力内にして、倭国統一組織を統括する。 斯馬国・伊万里地区王…「鬼国王」の盟主王である「弥奴国王」と「斯馬国・愛比売地区王」を自組織内に拘束する。 奴国王…「斯馬国・伊万里地区王」組織内となった「弥奴国王。斯馬国・愛比売地区王」を委譲されて拘束する。 伊邪那美命(好古都国王)…「伊耶那岐命」体制となり、「伊耶那岐命」倭王体制を統括する「鬼国王」体制内となって倭国内全組織を自組織内に組織化する。 つまり、「倭女王・壱与」をトップに祭り上げて、実の倭王権力は「弥奴国王」体制の「鬼国王」が握っていることになります。 また「鬼国王」は「弥奴国王」に連合した「好古都国王」と親密関係にありますから、「伊耶那岐命」倭王体制は、潜在的に「弥奴国王」倭王体制に近い事になります。 こんな考えの元に「邪馬台国」を想定すると「邪馬壱国」を倭国の「三星。三公」勢力内に内包した国が「邪馬台国」とも言えそうです。 (*;上記状況は、大八島国制定で「建日向日豊久士比泥別」と命名された国名を「原意読み」すると表れます。 また、旧国名の肥前の国由来は、大八島国制定時の肥国が先に倭王権力を統括した国と感じられ、現在火の国と称される肥後の国は、 「黄泉の国=二代目伊耶那岐命=好古都国」に倭王権を獲られて、その倭王権を取り返す際に肥国勢力を基本勢力とした事によると考えます。) こんな考えの元に”邪馬台国は何処だ”と言われれば、@に倭王体制が存在する「(*)筑紫国」。 Aに「筑紫国」倭王体制内となった倭国。といえるかと私は考えます。 (*;筑紫と竺紫) 「古事記」文の中で「筑紫国」と「竺紫の日向の橘の…。竺紫の君石井」の「竺」の漢字が使い分けられています。 同じ読みであるこの二つの「ツクシ」は漢字が違うように違った国であると考えます。 私の考える「竺紫の君石井」の「竺紫」は、大八島国を制定した九州倭国勢力がこの後、混乱を起こしながらも九州全体を統一し、 そして、東方に勢力を拡大して478年中国へ献使したとされる「雄略天皇」が紀ノ川沿いに大和に入ったと想像します。 この東方勢力拡大には倭の五王と称される遠征軍ばかりではなく九州母国勢力も遠征軍に加わり、力を合わせて大和に政権をつくり安定させたと考えます。 そして、この九州部族遠征軍と九州母国勢力が力を合わせてつくった大和政権が日本の中心に発展し、 この時代段階で次位の権力を持った旧倭国範囲が主として「竺紫」になるかと思うんです。 こんな関係の上に成り立った「竺紫の君石井」の叛乱を討伐に来た近江臣毛野に、 「石井」は、”昔は仲間として肩や肘をすりあい同じ釜の飯を食い合った仲ではないか”という言い伝えがあるかと考えます。 ちなみに「竺紫の君石井」が叛乱を起こした527年から雄略天皇が献使したとされる478年を引くと49年に成り、 18才で大和地区への東方遠征軍に参加したとすれば67才ですから、 もしかすると東方遠征軍に加わり大和地区を征圧した後、母国九州に帰った人が生存していた可能性があるかと考えます。 「竺紫の日向の橘の…」の「竺紫」に付いては、 「伊邪那美命」が「火之夜芸速男神」の神を生んで死に、倭王権が一時「奴国」体制に奪われますが、 「伊耶那岐命」が母国体制の「好古都国王」組織と協力し「奴国」倭王体制を制圧しました。 しかし、この戦いに於いて「伊耶那岐命」勢力よりも母国体制「好古都国王」勢力の方が大きな戦果をあげて大きな勢力を確保し「好古都国」に閉じこもってしまいます。 これに対して「伊耶那岐命」は、母国体制の「好古都国王(黄泉の国=二代目伊邪那美命)」に一代目「好古都国王(伊邪那美命)」と同じ連合を組もうと軍船を率いて迫りましたが、 二代目「伊邪那美命」は、自分だけでは決められないので、国の大人達と相談してくるから私が来るまで私の国を攻めないで待ってくれと帰りました。 しかし、数日が過ぎても二代目「伊邪那美命」の返事がないのに焦れた「伊耶那岐命」は、恫喝の為「好古都国」に一部隊を上陸させます。 すると「好古都国(黄泉の国)」内に控えていた八雷神の反撃を受けて這々の体で「斯馬国・伊万里地区」に逃げ込み、ここで「好古都国王」倭王体制が誕生します。 次に「古事記」文章で、 「是を以て伊耶那伎命大神詔りたまはく、「吾はいなしこめしこめき穢き国に到りて在りけり。 故、吾は御身の禊ぎ為む」と言って「竺紫の日向の橘の…」となりますが、 (*;この文章の「伊耶那岐命」を見てみますと「岐」の漢字が「伎」に変わっています。 つまり、「伊耶那岐命」が二代目「伊邪那美命」の勢力下となって権力が小さくなっていること表しています。) 「伊耶那岐命。伊邪那美命」倭王体制誕生時、前「狗奴国王」倭王体制はそのまま「伊耶那岐命」倭王体制に組織替えして 「大倭豊秋津島(烏奴国、支惟国範囲)」に隠居させてあります。 「伊耶那岐命」は、この「狗奴国王」倭王体制で働いた「卑弥呼」体制の「好古都国王」組織を自組織内にする為に「肥国」に入り、 「肥国」組織を基本勢力にして「卑弥呼」体制「好古都国王」組織を組織化します。 そして、二代目「伊邪那美命」勢力を征圧して倭国の統一をしました。 この際の倭国政変時、倭国内最大勢力は「黄泉の国」の二代目「伊邪那美命」にありますが、次位の勢力は「大倭豊秋津島」に隠居状態の「狗奴国王」体制にあります。 したがって、「竺紫の君磐井」と「竺紫の日向の橘の…」に使われた「竺紫」の共通点は、”次位の倭王勢力を持つ国”と比定できるかと考えます。 「原意」と簡単な「原意読み」例 (*;「原意」に対する「原意読み」を細かく説明しますと長くなりますので、「原意」のみを書きます) 「原意」 ア つながった構成体が 横広に 分かれる イ つながった構成体が 横広に つながりきる ウ つながった構成体が 横広に 柔らかく合わさる エ つながった構成体が 横広に 広がる オ つながった構成体が 横広に 集まる カ 区切れた立方体が 立体的に 分かれる キ 区切れた立方体が 立体的に つながりきる ク 区切れた立方体が 立体的に 柔らかく合わさる ケ 区切れた立方体が 立体的に 広がる コ 区切れた立方体が 立体的に 集まる サ 構成体部分が 横広に 分かれる シ 構成体部分が 横広に つながりきる ス 構成体部分が 横広に 柔らかく合わさる セ 構成体部分が 横広に 広がる ソ 構成体部分が 横広に 集まる タ 一体化した細かい物が 立体的に 分かれる チ 一体化した細かい物が 立体的に つながりきる ツ 一体化した細かい物が 立体的に 柔らかく合わさる テ 一体化した細かい物が 立体的に 広がる ト 一体化した細かい物が 立体的に 集まる ナ 一体化した細かい物が 横広に 分かれる ニ 一体化した細かい物が 横広に つながりきる ヌ 一体化した細かい物が 横広に 柔らかく合わさる ネ 一体化した細かい物が 横広に 広がる ノ 一体化した細かい物が 横広に 集まる ハ 区切れた範囲の別体が 立体内に 分かれる ヒ 区切れた範囲の別体が 立体内に つながりきる フ 区切れた範囲の別体が 立体内に 柔かく合わさる ヘ 区切れた範囲の別体が 立体内に 広がる ホ 区切れた範囲の別体が 立体内に 集まる マ 複数の立方体が 立体的に 分かれる ミ 複数の立方体が 立体的に つながりきる ム 複数の立方体が 立体的に 柔らかく合わさる メ 複数の立方体が 立体的に 広がる モ 複数の立方体が 立体的に 集まる ヤ 増減する物が 横広に 分かれる ゐ 増減する物が 横広に つながりきる ユ 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる ゑ 増減する物が 横広に 広がる ヨ 増減する物が 横広に 集まる ラ 離れた物が 横広に 分かれる リ 離れた物が 横広に つながりきる ル 離れた物が 横広に 柔らかく合わさる レ 離れた物が 横広に 広がる ロ 離れた物が 横広に 集まる ワ 内側に つながり関係が 細かく分かれる ヰ 内側に つながり関係が 細かくつながりきる ウ 内側に つながり関係が 細かく柔らかく合わさる ヱ 内側に つながり関係が 細かく広がる ヲ 内側に つながり関係が 細かく集まる ン 複数の立方体が 立体的に 柔らかく合わさりきる (マ行ム音の完成音と考える) 他に濁音は、同じ「原意」を二つつなげて「原意読み」し、半濁音は、「細かく、小さく、緊密に」という意味に解釈します。 「原意読み」の例 ユの一音読み漢字「湯、油、愉、遊、輸、諭、癒」と「卑弥呼」「箱」を「原意読み」する。 「湯」の「原意読み」 湯の成り立ちをどうこう考える人はあまりいないと思いますが、 私の勉強では、「水(又は、ある物体に)に離れる条件を以て熱が加わり、液状に成っている」と分析します。 ユの原意 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる 湯の原意読み (高低する)熱が 水の中に 合わさっている 「湯」の意味は、「高低する(増減する物)熱が水に合わさっている」と単純明快に解釈することが出来ます。 この場合、「横広に」の下の「水」を「鉄」に置き換えると溶鉱炉内で溶けた「鉄の湯」になります。 「原意読み」に於いて、「増減する物」の意味はこの場合「熱」ですが、 雪の場合の「ユ」は、「積もって増える、溶けて減る」形。弓の場合は、「弓を引く、放つ」の際の弓の湾曲の変化を現します。 「油」の「原意読み」 ユの原意 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる 油の原意読み (軽重する)摩擦部の 内側に (注;)塗る 遠い昔のベアリングの無い時代に出来た油に対する一つの意味は、 「軽重する摩擦部の内側に塗る」と解釈できます。又、火と油の関係を考えてみると、火の勢いを増す物という事も言えます。 (注;「柔らかく合わさる」を「塗る、世話になる、積む」等に訳しますが、これらの言葉の意味は、離れる条件の下に一体形を成している形です。) 「愉」を「よろこぶ」という意味合いで「原意読み」します。 ユの原意 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる 愉の原意読み (喜怒哀楽の)喜が 心に 合わさる この場合は、「喜怒哀楽」の心の変化を表現し、「喜」を「増減する物」の「増」と考えます。 「遊」を「あそぶ」という意味合いで「原意読みします。 ユの原意 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる 遊の原意読み 楽しみを 自分に 合わせる 「増減する物」を「喜怒哀楽」の「楽(たのしみ)」にしますと、趣味的楽しみの中に自分を置くと読めますし、 また「祭り等で人が集まる場所」としますと、人混みの中に自分も参加するという意味になります。 輸…「物を送る」として読みます。 (この送るという意味の「ユ」は、色々な意味を含んでいるように感じます。 第一に商品を輸送すると言った場合は、「儲かる損する」の意味に「増減する物」が当てはまります。 また、人組織の場合の「増減する物」は、多くの人組織を部下にする、という意味合いになりますから、「出世移動する」という意味になるかと考えます。) ユの原意 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる 輸の原意読み 増やす物を 一体に 合わせ積む 「増やす物(儲かる物=商品、占領する物=武器・兵士、)を内に合わせ積む」というように読めますが、「送る」という意味が読みとれません。 「送る」前段階の荷物を集合するという感じがします。 諭…「さとす」として読みます。 ユの原意 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる 諭の原意読み 年長者あるいは上階級者の 意志に 合意する 「さとす」という言葉は、上位の者が下位の者を説得するという意味と考えますから、年長者あるいは上階級の者(増減する物)の意志に合意する、と解釈します。 癒…「病気や負傷がなおる」として読みます。 ユの原意 増減する物が 横広に 柔らかく合わさる 癒の原意読み (重軽する体全体の)動きが 意志通りに 動く 「増減する物」の意味に人間の体の「快調と不調(病気・けが)」の状態を当てはめました。 「卑弥呼」「箱」の「原意読み」 卑弥呼 弥奴国王体制好古都国王を 自組織内に 一体化し ヒ 区切れた範囲の別体が 立体内に つながりきる 倭国内全組織を 自組織内に 組織化して ミ 複数の立方体が 立体的に つながりきる 弥奴国王を 自組織内に 集め内包した コ 区切れた立方体が 立体的に 集まる 『「弥奴国王(天之御中主神)」体制「好古都国王(高御産巣日神)」を自組織内に一体化し、 倭国内全組織を自組織内に組織化して「弥奴国王」も自組織内に集め内包した』というように読めます。 この読みの中で「倭女王」である「卑弥呼」に何で”いやいしという意味の卑の漢字が使われているか”が分かります。 つまり、自分で組織した勢力ではない、「弥奴国王」が組織した、倭国内全組織を組織内にする「好古都国王」組織を自組織内にして倭王権を獲るからです。 「狗奴国王・卑弥弓呼」の「卑」も同じで「倭女王・卑弥呼」が組織した「好古都国王」組織を自組織内にして倭王権を獲ったからです。 また5〜6年前に成るかと思いますが、井沢元彦氏の邪馬台国論か卑弥呼論かのテレビ放送で台湾の古代語研究家に「卑弥呼」の漢字を弥生時代にはどう発音したか、 ということに対して「卑弥呼(ベメファ)」だったろうと言うことでした。 ベメファを「原意読み」してみます。 弥奴国王体制好古都国王の組織内に 成り(弥奴国王体制好古都国王を組織内にして) ベ 複数に、区切れた範囲の別体が 立体内に 広がる 弥奴国王組織も 組織内に して メ 複数の立方体が 立体的に 広がる 弥奴国王体制斯馬国・愛比売地区王も 組織内に 連合した フ 区切れた範囲の別体が 立体内に 柔かく合わさる 弥奴国王倭王体制を 勢力内に した ァ つながった構成体が 横広に 分かれる 『「弥奴国王」体制「好古都国王」組織の組織内に成り「弥奴国王」体制「好古都国王」組織を組織内にして、 (倭王権威者の弥奴国王に一対である)「弥奴国王組織」を組織内にし、 「弥奴国王」倭王体制を勢力内にした「弥奴国王」体制「斯馬国・愛比売地区王」も自組織内に連合した』「倭女王・卑弥呼」というように読めます。 時の倭国内勢力は、渡来人組織である「奴国」体制勢力をまとめ統括する「斯馬国・愛比売地区王」勢力と原倭国勢力を統括する「好古都国王」組織に大別され、 この二勢力が「弥奴国王」体制と成って倭国統一か為されましたから、この二勢力を勢力内にした国王は自動的に倭王位に就きます。 箱 構造的に読む ある面積の別材を 立体的に して ハ 区切れた範囲の別体が 立体内に 分かれる 一個の立体物に 立体的に 集める コ 区切れた立方体が 立体的に 集まる 『ある面積の別材を立体的にして一個の立体物に立体的に集め固定する』というように読めます。 使用目的で読む 箱の中の空間の 立体内に する ハ 区切れた範囲の別体が 立体内に 分かれる ある立方体(品物)を 一体に 集め コ 区切れた立方体が 立体的に 集まる 『ある立方体(品物)を一体に集めて箱の中の空間の立体内にする』というように読めます。 以上 。